牛久保城主

41 の用例 (0.00 秒)
  • 弘治2年、牛久保城主であった牧野貞成が今川氏に逆心したことにより牛久保城主の地位を失ったと考えられ、今川義元の差配によりその後継は右馬允となった。
  • 藩主牧野氏の直接・確実な先祖は、室町・戦国期に三河国宝飯郡の牛久保城主・牧野成定であり、現、豊橋市界隈まで影響力を持っていた国人領主であった。
  • そのため中途の弘治2年2月には今川義元により牛久保城主の地位を追われ、一族で親今川派の牧野成定に代わられた。
  • 大塚城主・岩瀬氏俊の弟・和泉守入道善性が牛久保城主・牧野氏に付属したのが、徳川幕臣・岩瀬氏の祖である。
  • 本藩長岡藩の先祖は、三河国宝飯郡牛久保城主であるが、このとき領地は6000石から、7000石に過ぎない。
  • 戦国時代に、東三河において牛久保城主牧野氏と同等の勢力があったか否かは疑問が残るが、越後国長岡藩の伝説を記述した「温古之栞」によると、三河国牛久保城主の牧野新次郎は、徳川家康に安堵された所領を、牧野氏・真木氏・野瀬氏などと均分に分けたとしている。
  • 小諸藩主牧野氏は、三河国宝飯郡牛久保城主を発祥とする徳川譜代・越後長岡藩主牧野氏の完全な支藩であるため、その家風は、本藩を見習うことが定められていた。
  • 牛久保城主牧野成定は今川義元の指示により西三河の西尾城を弘治3年よりこの時まで在番守備しており、居城の牛久保城は宿老稲垣重宗及び真木氏に留守を任せていた。
  • まず真木定観末裔説を補強する傍証として、16世紀に牛久保城主・牧野氏と縁が深いとみられる真木氏の一族・真木宗成が、大和国長谷寺に赴いて出家して帰郷し、同地に長谷寺を建立し、牧野家の守本尊を奉っていたとする伝説が存在する。
  • もっとも、松平清康が三河国をほぼ統一した享禄4年に、吉田城主牧野氏及び、真木氏には清康と戦った史料・伝説が存在するが、牛久保城主牧野氏及び岩瀬氏には清康と合戦したとの史料・伝説は未見である。
  • 近世になると牛久保城主から、上野国大胡城主を経て、越後長岡藩主に栄転した藩主牧野氏に随従して、その上級家臣に名を連ねていた。
  • また『牛窪記』には、牛久保城主は、牧野保成とある。
  • 牧野成敏は牛久保城主牧野氏の一族で正岡城主であったが、松平清康の東征に協力した功で今橋城番となり、天文4年の森山崩れで松平清康が急死したのを機に占拠しそのまま城主になっていた。
  • 最大の相違点は京合戦で、一色氏に与力のため参陣して疲弊した伝説上の人物、牧野平三郎成興に先祖を求めるのか、それとも当家の主家筋に当たる牛久保城主牧野氏に対して徳川・松平のために一時的に反旗を翻した、実在性の確認できる正岡城主牧野成敏に求めるかである。
  • 牛久保城主・牧野氏が駿河・遠江の戦国大名・今川氏を見限り、岡崎城主の徳川家康に臣従することを、ためらっていた時期に、家康と内通して、内部からの切り崩しをおこなったと推察される。
  • 真木又次郎と、花藻の帰参の子細は、明らかでないが、牛久保城主は、今川派の牧野出羽守保成から、徳川派の牧野成定・康成に交代していた。
  • 牛久保城主牧野貞成の養子となり、牛久保城主を継ぐ。
  • 花藻は、牛久保城主・牧野出羽守保成の給仕の女中であったが、真木又次郎と恋に落ちて、牛久保城下の観音堂の縁日に人混みに紛れて、2人で出奔・駆け落ちをした。
  • 牧野成定は三河牛久保城主であったが、三河牧野氏の移封にともなって寺も大胡藩、越後長岡藩と移転して、現在地に移り、栄涼寺と改称した。
  • また校区内には八幡神社・光輝院の牧野成定廟・大聖寺の今川義元墳墓・長谷寺山本勘助遺髪塚・熊野神社の天然記念物牛久保のナギの木等の史跡・記念物も豊富にあり、「みつがしわ学習」と称して、牛久保城主牧野氏一族などをテーマに郷土についての学習を積極的におこなっている。