牛久保城主

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  • 義元により追放され牛久保城主の地位を失っていたと考えられる貞成は蟄居した。
  • 牛久保城主一門にしてはなぜ寄騎の扱いであったか不明な点も多い。
  • 牧野家中において、譜代の家柄と云うのは、牛久保城主以来の者を指す。
  • 永禄9年、牛久保城主であった父・成定の病死をうけて11歳で遺領を相続する。
  • このように稲垣林四郎家の家祖である氏連は、牛久保城主・牧野成定が、徳川家康に帰服した直接の原因を作ったとする説もある。
  • はじめ保成は新二郎、貞成は新四郎称したとされ、後に貞成は牛久保城主牧野民部丞成勝の養嗣子となる。
  • また、その弟・牧野貞成は牛久保城主の牧野成勝の系を継いだとされ、天文年間初期には牛久保城主になったと推定される。
  • 当家は室町・戦国期に藩主牧野氏の先祖が、牛久保城主であった時代から仕えていた古参の家臣・加藤孫蔵の惣領家である。
  • その後は牛久保城主牧野氏の徳川家康に対する帰順と、家康の三河平定に寄与した。
  • 倉地氏は、牧野氏が戦国時代に三河国宝飯郡の牛久保城主であった頃から仕えた古参の出自を持っていた。
  • 東三河に退いた貞成は既に同年2月今川義元の布達で牛久保城主の地位を失っており、蟄居隠棲した。
  • ほかに倉地直秀・弟の家系がもう一系統あるとされ、この家系は牛久保城主牧野氏の属臣であった稲垣氏の家臣に転属した。
  • 藩主牧野氏の先祖は室町・戦国期の東三河地方の牛久保城主牧野氏であったとされ、初代長岡藩主忠成の祖父・成定以前の牧野氏については諸説があるが、戦国大名今川氏に属して松平氏とは対立した。
  • 牛久保城主・牧野成定が徳川家康に臣従した際に家康より発給された永禄9年5月9日付けの家康の判物の末尾に「諸給人の儀、五・六人衆に相計る可き事」と特に付記されている。
  • 校章はこの牛久保城主であった牧野氏の家紋に因み、三つ柏の中に「牛」の字をあしらったものである。
  • 牛久保城主・牧野氏に与力した疋田氏は、天正年間以前は、牧野氏・真木氏と、野瀬氏とは異なる歴史を持っていた。
  • 東三河に位置する牛久保城主・牧野氏及び牛久保六騎は今川氏の勢力として初めはこれに強く抵抗したが、東三河において今川氏が敗色濃厚となった永禄8年より、牛久保六騎は城主牧野氏に先んじて徳川方と和睦した。
  • しかしその後、丹波守は徳川家直参旗本として召し出されて、牛久保城主・牧野氏を離れた。
  • この信成の父の康成は、関ヶ原の戦いで真田昌幸の上田城攻めに参加して牛久保城主から大胡城主となった康成とはまったく別人であり、混同されないように、この系統を牧野山城守の一族という通称を使用して説明されることが多い。
  • しかし貞成は1556年今川氏に逆心して蟄居の身となり、養子の成定が牛久保城主となると吉田城との関係は緩和し、今川氏の親任厚い保成の主導のもと、牛久保牧野家もまた今川氏の三河経営に組み込まれていく。
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