牛久保城主
54 の例文
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越後長岡藩主牧野氏及び、同藩から家臣団と所領を分与されて立藩し、政事上の指導を受けた越後三根山藩主牧野氏、信濃小諸藩主牧野氏の3つの藩の家臣の先祖を探る上で重要な史料である。牧野家中において、譜代の家柄と云うのは、牛久保城主以来の者を指す。牛久保以来の家柄か否かは、この名簿である程度判断することができる。
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しかし、今川義元はすぐに吉良領に今川方の松平軍を派兵し、荒川山城を拠点に西尾城を攻めたため、貞成は牛久保方面へ敗走した。義元により追放され牛久保城主の地位を失っていたと考えられる貞成は蟄居した。永禄3年今川義元が桶狭間の戦いで戦死後、岡崎城に復帰した松平元康が伊奈本多氏一族の本多信俊や宝飯郡大塚の大塚城主・岩瀬吉右衛門を通じて貞成を調略。
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牧野貞成は牧野氏の家譜・系図によると、三河牧野氏の牧野成種の次男として生まれ、三河国宝飯郡牛窪にあった牛久保城城主の牧野成勝の養子とされる。天文年間初期に成勝より牛久保城主を受け継いだと考えられるが、交代の正確な年は不明。初めは父と共に駿河国の今川氏に属したが、今川氏は当主今川氏輝が幼弱であったため、その間隙を衝いて貞成は今橋牧野家の牧野信成と共に自立を計るが、享禄2年・天文元年と西三河岡崎城主の松平清康が東三河に侵攻するとこれに服した。
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このように稲垣林四郎家の家祖である氏連は、牛久保城主・牧野成定が、徳川家康に帰服した直接の原因を作ったとする説もある。稲垣林四郎氏連は、家康から60貫文をたまわったが、永禄5年9月4日の大塚城の戦いに松平軍として参陣して討ち死にした。
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貞成は永禄4年松平元康に服属した。しかし永禄5年8月28日、牛久保城主に復帰することなく死去。法名は月江常心大禅門、葬地は愛知県新城市庭野の曹洞宗龍岳院。
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倉地家は、信濃小諸藩主牧野氏の用人・倉地氏の庶流であったが、越後三根山に陣屋を持っていた6000石の旗本・牧野氏家臣団において、山本氏・神戸氏と並ぶ家禄・百石級の門閥の家柄であった。倉地氏は、牧野氏が戦国時代に三河国宝飯郡の牛久保城主であった頃から仕えた古参の出自を持っていた。倉地百汲は、25歳で家老であった父から家督を相続して、越後三根山に陣屋を持つ旗本・牧野氏では家老に次ぐ、重臣である用人となった。
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父は、三河国宝飯郡牛久保城主・牧野氏の寄騎であった牧野山城守定成。正室は小笠原安次の娘。
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ほかに倉地直秀・弟の家系がもう一系統あるとされ、この家系は牛久保城主牧野氏の属臣であった稲垣氏の家臣に転属した。主君・稲垣氏が班を進めたことにより、鳥羽藩主稲垣氏の上級家臣となった。
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永禄9年、牛久保城主であった父・牧野成定の病死をうけて11歳で遺領を相続する。その際に一族の牧野某と遺領争いとなるも、徳川家康の承認と後援の結果、成元を退け相続に成功した。
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慶長4年、康成の死去により信成が家督を継ぐ。この信成の父の康成は、関ヶ原の戦いで真田昌幸の上田城攻めに参加して牛久保城主から大胡城主となった牧野康成とはまったく別人であり、混同されないように、この系統を牧野山城守の一族という通称を使用して説明されることが多い。所領は武蔵国足立郡石戸領主。
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徳川家康が東三河に進攻し優勢になった永禄8年に牧野山城守定成は、嫡子・半右衛門正勝と共にいち早くに内通。その後は牛久保城主牧野氏の徳川家康に対する帰順と、家康の三河平定に寄与した。
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牛久保駅構内と牛久保小学校の敷地内はかつての牛久保城の城域が含まれている。校章はこの牛久保城主であった牧野氏の家紋に因み、三つ柏の中に「牛」の字をあしらったものである。学校玄関脇には、牧野氏が定めたとされる「参州牛久保之壁書」の条目にある言葉、「礼儀廉恥と云ふ事」・「何事にても根本と云ふ事」を刻んだ石碑が置かれ、壁書の教えが校訓として今も受け継がれている。
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そのため中途の弘治2年2月には今川義元により牛久保城主の地位を追われ、一族で親今川派の牧野成定に代わられた。牧野貞成は牧野氏の家譜・系図によると、三河牧野氏の牧野成種の次男として生まれ、三河国宝飯郡牛窪にあった牛久保城城主の牧野成勝の養子とされる。
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東三河地方の国人領主。牛久保城主第2代、通称は民部丞・右馬允・新二郎。
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通称は新次郎、右馬允、民部丞とも称したという。牧野成定は戦国時代の東三河宝飯郡の牛久保城を拠点とする国人領主で牛久保城主。祖父成勝の頃から既に今川氏の勢威に服していたが、成定が城主であった永禄4年4月には今川氏から独立した徳川氏の進攻をうけ、他の東三河国人衆が概ね徳川氏に転属したのに対し成定は今川氏への従属を強め、居城牛久保に今川軍の駐留を受け入れた。
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翌永禄9年には城主牧野成定を説得して、同5月、成定の和睦・開城を実現し、家康より牛久保衆の掌握を命じられた。牛久保城主・牧野成定が徳川家康に臣従した際に家康より発給された永禄9年5月9日付けの家康の判物の末尾に「諸給人の儀、五・六人衆に相計る可き事」と特に付記されている。
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能勢氏も真木氏同様に牛久保六騎出身であって、その当主・能勢丹波守は、1565年に徳川家康へ恭順すると、翌年にはその命により稲垣氏ら他の寄騎とともに牛久保衆の諸士を掌握した。しかしその後、丹波守は徳川家直参旗本として召し出されて、牛久保城主・牧野氏を離れた。
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