浅草奥山

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  • 新門辰五郎は「十番組・を組」の火消しの頭取で、浅草奥山一帯を縄張りにして、江戸中にその名を知られた侠客きようかくである。 二宮隆雄『海援隊烈風録』より引用
  • こういうぐあいの口上をもって、いましも浅草奥山の人の出ざかり、居合い抜きからがま油の効能を述べております二十歳はたち前後の若者、そのうしろにひかえておりますのは、その男の姉でもありましょうか、年ごろ二十二、三の美しい娘、これが鎖鎌をつかうのでございます。 興津要『古典落語(続々々)』より引用
  • 葉村はむら一座と呼ばれる所の浅草奥山の玉乗の元締、それをしている「爺つあん」は、どうしたものかこう云うと涙をポロポロ零したが、そのまま夜具へ顔を埋めた。 国枝史郎『大捕物仙人壺』より引用
  • 慶安四年の卯月の陽がカンカン当たっている真昼の事で自由に身動きが出来ないほど浅草奥山の盛場は人で立て込んで居りました。 国枝史郎『赤格子九郎右衛門』より引用
  • いいつつも、四尺八寸のお公卿くげさまといっしょに、それなる手裏剣打ちの芸人を小屋への案内人として、ふうふう息を切らしながら駕籠のそばを走ってまいりましたものでしたから、右門はただちに浅草奥山の見せ物小屋通りに乗りつけました。 佐々木味津三『右門捕物帖』より引用
  • 江戸浅草奥山の的屋、道端や境内などで独楽回しの伴奏として演奏していたのを見出され、2代目杵屋六三郎の門人になった。
  • 幸い知人に資本金600円を借りることができたため1874年に当時盛り場だった浅草奥山に写真館を移転、10年余の間に奥山でも1、2を争う写真師となった。
  • どっこい、浅草奥山や両国広小路で、女をひろうようなあんばいにはいかなかった。 柴田錬三郎『岡っ引どぶ 巻三』より引用
  • かれらは、西洋のあたらしい画法を同胞に紹介すべく、人出の多く、にぎやかな浅草奥山をその展示場としてえらび、見世物小屋を借りうけることにした。 加藤秀俊『一年諸事雑記帳(上) 1月~6月』より引用
  • 浅草奥山の盛り場は今日も雑踏をきわめていた。 柴田錬三郎『江戸群盗伝』より引用
  • 見世物のメッカは両国と浅草奥山ですが、ここに珍しい興行が掛かると、江戸の人たちは千里も遠しとせず押し掛けたものです。 泡坂妻夫『11枚のトランプ』より引用
  • またその付近には、吹矢店、くじ引店なども出来て、昼夜老若男女が雑沓し、まるで浅草奥山辺の光景であった。 南條範夫『山岡鉄舟(二)』より引用
  • 勝の市も荒磯も、ともに浅草奥山の大道芸人、勝の市は居合い抜き、荒磯は力持ち、ふたりとも奥山では人気のあった芸人だった。 横溝正史『人形佐七捕物帳 15』より引用
  • 浅草奥山で見た西洋手品のせりふだ。 山田風太郎『警視庁草紙(下)』より引用
  • 新門辰五郎の家は浅草奥山にあった。 二宮隆雄『海援隊烈風録』より引用
  • とりかこんでみていました群集はもとより、物見高いは江戸のつね、ことに浅草奥山、繁昌のまんなかでございますから、黒山のひとだかりでございます。 興津要『古典落語(続々々)』より引用
  • 芝居見物、花見、屋形船遊びはまだよい方で、浅草奥山や両国広小路の盛り場を、平然とねりあるくにいたって、大層な評判になった。 柴田錬三郎『岡っ引どぶ 巻一』より引用
  • その日もお艶は、浅草奥山の出会い茶屋の奥座敷で、山三郎とうれしい瀬にもえていた。 横溝正史『神隠しにあった女』より引用