正三位
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この戦いで織田水軍は敗れ、毛利軍により石山本願寺に兵糧・弾薬が運び込まれた。このような事情の中、11月21日に信長は正三位・内大臣に昇進している。この年の冬には、天皇の安土行幸が計画されており、それはその翌年の天正5年に実行されるはずだった。
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明治23年より貴族院議員となり、勲三等瑞宝章・旭日中綬章を受ける。日清・日露両戦争での功績により正三位勲三等・従二位に叙された。長男の康良に先立たれていたため、次男の康春が家督を継いだ。
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入院2、3日前に胃の痛みを訴えたが実際には心臓の痛みで入院先で心臓マッサージを受けたが帰らぬ人となった。死後、死去当日の日付で正三位を追贈され、旭日大綬章が授与された。
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「おい、内藤正三位」 と級のもてあましもの堀口生が正三君を呼んだ。運動場で二人出会いがしらだった。
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大正4年11月10日、正三位が追贈された。この日には他にも多くの歴史的人物への贈位がなされ、父・頼義も同日に正三位を贈られている。
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天正6年に叙爵し、侍従・左近衛少将をへて、天正15年に従三位・左近衛中将となり公卿に列する。慶長3年には正三位となったが、以降長く官位官職の上昇がなかった。そんな中の慶長13年に猪熊教利・烏丸光広・花山院忠長・飛鳥井雅賢・難波宗勝・松木宗信・徳大寺実久らと共に御所の官女と密会して乱交に及ぶ事件を起こした。
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このため童殿上をとげ、元服加冠してからの昇進は早かった。まだ乳の香の失せぬ若公達でいながらすでに正三位左中将に叙任されている。あきらかに親の七光り、西園寺という家格のおかげなのに、感謝するどころか笙に熱中し、 「家の業は琵琶だぞ」 実兼が叱っても、 「絃をはじくのは苦手なんですよ」 聞き入れようとしない。
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建仁3年に従三位に叙せられて公卿に列した。建永2年には正三位・参議に叙任されるが、その後の昇進は停滞する。建暦元年に参議を辞退して従二位に叙せられるが、貞応2年12月に出家して安貞2年に薨去。
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嘉承3年従三位に進み、天永2年備前権守を兼ねる。永久元年には正三位となり、永久3年に宣命により権中納言に任ぜられた。永久5年宮内卿を兼ねるがほどなく大宰権帥に転じて現地に赴任する。
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以来正三君に、 「おい、家来、しっかりしろ」 「やい、正三位」 なぞとからかうものがでてきた。正三位はまもなくすたって家来だけが正三君のあだ名として残った。もっとも善良組はけっしてそんなことをいわない。
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久我 敏通は、江戸時代中期の公卿。主に桜町天皇・桃園天皇の二帝にわたり、仕え、官位は正三位権大納言。この信通と敏通の曽祖父は久我通名である。
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翌長徳2年道隆の嫡男の内大臣・藤原伊周が、花山法皇に矢を射掛けたとして大宰権帥に左遷されたが、在国はこれを厚遇して、後に道長の側近であるにも関わらず道隆の外孫である敦康親王の後見を務めるきっかけとなった。なおこの年には、正三位に叙せられるとともに、在国から有国に改名している。長保3年平惟仲の大宰権帥就任と入れ替わるように帰京して、従二位・参議に叙任され59歳にして議政官となる。
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参議昇進以降三条朝にかけて伊予権守を兼官するにとどまる。後一条天皇が即位した長和5年には従三位次いで正三位に続けて昇叙される。後一条朝では議政官として勘解由長官・左兵衛督・検非違使別当を兼ねた。
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貞永元年12月に参議に任命され、嘉禎元年11月に正三位に叙される。嘉禎4年閏2月に致仕する。
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宝亀8年に従三位に昇叙。同年8月に光仁天皇の夫人となり、延暦2年に正三位に進んだが、天皇との間に子は確認されていない。
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季節は秋を迎えていた。吉之助が正三位に叙せられたのはこの年の九月二十六日である。しかし吉之助は位記返上を願い出、藩主忠義の名で案文を書く。
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名を賢子といい、父は藤原宣孝で母は紫式部。正三位太宰大弐高階成章の妻になってから大弐三位と呼ばれた。また越後弁とも言われる。
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