欣求
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名詞
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光秀は、気持がみじめになればなるほど、そのことを想った。念仏僧が念仏をとなえ西方浄土の阿弥陀如来を欣求する気持に似ている。弥陀の御名を唱えつづけるようにそのことに憧憬れ、そのことを念じ、そのことを成就できる道を考えつづけた。
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彼等は彼等自身と共に世間を欺いてゐたと言つても好い。しかし善や美に対する欣求は彼等の作品に残つてゐる。殊に彼等の生きてゐた時代は仏蘭西のロココ王朝と共に実生活の隅隅にさへ美意識の行き渡つた時代だつた。
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人間は働きたいが本能でなく、なまけたいのが本能だ。生をぬすまんがために表面追従するだけで、生の拡大と鞏固とを欣求するような英雄は一人も来やしない。彼等の蔭口を聞いていると、この王国を愚弄し、わが暴女王の甘きにタカるあぶら虫のような奴等ばかりだ。
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遠くなればなるほど、心は京の空に馳せている。厭離と欣求がここでは別の対象ではない。離れることによって近く、遠ざかることによつて強烈な思いにかられる。
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意志は意識の根本的形式である。この意志に発動する実在の統一作用は無限にその具体化を要求し、完成を欣求する。現実はつまりかかる要求の一時的相対的権現であって、一段の実現は同時に呼応する対立を生じて、一層高次な統一を完成し、同時に新対立ができて、層々無限に休止する所がない。
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自分の心のなかにおこる善玉悪玉の争いは、自分の「我」をつくり上げている、さまざまな魍魎の意志がせめぎあうのだと解釈している。そして、自分のなかにある悪玉を、自分のなかにある善玉から引き離すことを、精神的な欣求としている。
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しかも平尾氏は妻を信じ切つて、少しも疑ひませんでした。藝術を捨てたのではなかつたが、不治の病気を抱いて、死に直面した平尾氏は、藝術よりもむしろ神の救ひを欣求しました。で、京都に来て同志社神学校に入りました。
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しかし延喜元年、岳父の菅原道真が、斉世親王の兄である醍醐天皇から斉世親王に譲位させようとしたという嫌疑で九州大宰府に左遷されると、斉世親王は仁和寺に入って真寂と名乗った。その後は欣求修行につとめ7回の灌頂を受けたという。三品に叙された。
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水を酒とするのでなくて、酒が水となつた境地だ、酒は酒、水は水だけれど、酒と水とにとらへられない境涯、酒と水とに執しない生活だ。こゝから、俳句、私の欣求する俳句は出てくる、私はさういふ俳句を作らうと念じてゐる。個から出発して全に到達する道である、個を窮めて全を発見する道である。
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部落民は一般に仏法に対して最も熱烈なる信仰を有している。彼らが寺院に参詣して仏を拝し法を聴くの状態を見るに、一心に浄土を欣求するの至情が躍如たるものがある。彼らには日常の生活に苦しむ身でも、御本山への志納金はあえて怠らない。
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この、厭うべき三行相と欣うべき三行相を観ずることを六行観というのである。ごたごたと説明を加えたが、右の逸話の趣旨からして、問題となっているのは、要するに、この六行観においても、現状ないしそれ以下の状態を厭離し、上の方の状態を欣求するということである。さて、天慶元年に京の都に上るまで、空也が各地で激しい苦行に身を挺したらしいということはすでに述べた。
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軈て自由と平等とはその名の如く美しく咲くであろう。その尽きざる快楽の欣求を秘めた肺腑を持って咲くであろう。四騎手は血に濡れた武器を隠して笑うであろう。
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アイルランド人は想像力に富み、独得の民間宗教に立脚した宇宙観を持っている、などとよく言われる。なんのことはない、十二世紀から十七世紀までの間にイングランドに征服されて土地を奪われ、虫けら扱いの悲惨な小作人生活を強いられたために、民族信仰に縋り想像上のユートピアを夢想し欣求しなければならなかっただけの話である。アイルランド人が反抗運動を起こすのは当然で、イェーツやシングやグレゴリー夫人が始めたアイルランド国民劇場運動なども、その構想はたんなる「文芸復興」にとどまるものではない。
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青年の心を支配するものは「新」といふ字に越すものは無い。自分自身が凡ての物の芽生えに有する溌剌たる生気を有してをるところから、見渡した世界に欣求するところのものも亦凡て新しきものである。否、新しきものといふよりも寧ろ「新」といふ文字其ものである。
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早い話が、「黄金時代」が再来せぬかぎり、それは欣求せらるべきものである。このやうな器具が、次のやうな二つの肩書をつけて、各家庭内に普及せしむべき有益なるお年玉の一つとして数へられるのは至極当然である。
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飲んで寝て食べて、読んで考へて、そして何にもならない新年だつたが、それでよろしい。私が欣求してやまないのは、悠々として迫らない心である、渾然として自他を絶した境である、その根源は信念であり、その表現が句である、歩いて、歩いて、そこまで歩かなければならないのである。
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フランクの音楽は、いかにその外見は壮麗であるにしても、かつてバッハがありし如く、深く信仰に根ざしたもので、換言すれば、厭離と欣求の音楽であり、懺悔と贖罪の音楽であったのである。フランクは単なる「美の追求」のために、一小節の音楽も書かなかったことは少しでもフランクを知る誰にでも首肯されることであるだろう。
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