権現造り
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名詞
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奥に接したところに幅のせまい神社式の本殿がある。屋根には千木も鰹木もないが完全な神社建築で、拝殿が寺院ともつかぬ形式だから二つの接続は権現造りと似ている。そこから裏手に出て引地は右側の摂社を見て歩いた。
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建設年 - 昭和26年、設計者 - 伊東忠太、構造規模 - 木造1階、概要 - 讃岐丸亀藩主の讃岐の金刀比羅権現を江戸藩邸に屋敷社として勧請した建物である。第二次世界大戦で焼けたため、権現造りの拝殿・幣殿は昭和26年に再建された。
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その後、室町時代初期に増吽僧正が中興したのを経て、江戸時代中期には岡山藩主池田家の祈願所となり、正月・五月・九月には藩主自ら由加山に参拝した。また、蓮台寺境内に池田公が権現造りの本殿・拝殿を新築・寄進した。元は神仏習合の施設であったが、明治の神仏分離の法難にあい、前述の神社の場所だけを由加神社とし、分離。
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主祭神はウカノミタマノミコト、すなわち農業神である。社殿は元禄4年に再建された権現造りとなっている。
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これは仏教の一線を守るという考えのあらわれと思われる。この本地垂迹説により、権現造りや本地垂迹の図画なども生まれ、鎌倉中末期には文学でも本地物と呼ばれる作品が創作された。戦国時代には、さらに天道思想による「諸宗はひとつ」とする統一的枠組みが形成されるようになった。
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日立市かみね公園に隣接した里宮と神峰山山頂に奥の宮がある。社殿は権現造りで、本殿と拝殿が一体化している。
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関山神社はゆるやかな山麓の斜面台地にあって、そこら一帯がみな境内となっていた。樹齢六百年という杉のうっそうとした木立ちのなかに権現造りの本殿があって、ほかにもまた宝蔵院だの、妙高堂だのといったものが、広い境内のあちらこちらにある。私たちは、パネル写真にして本殿のそこにかかげてある、神体の菩薩像をなんとかみせてもらえないものかと思って社務所をさがしたが、境内にあるそれは祭りのときなどの臨時用であるらしく、鍵がかかったきり無人となっていた。
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伊豆にはほかにも同系社がたくさんあるのに、なぜ三島市大宮町にあるこの三嶋大社が伊豆国一の宮という大社になったか。それは多分、東海道という要地に位置していたからではなかったかと思われるが、現在の三嶋大社は五万平方メートルの境内地にいわゆる権現造りの社殿を構え、宝物館には俗に「三島本」といわれる『日本書紀』などの古写本もある。また、室町時代から江戸時代にかけて「三島暦」というのが発行されたのもこの三嶋大社で、境内には樹齢一千二百年余という金木犀などがあることでも有名だが、社務所で『三嶋大社参拝の栞』というのをもらってみると、いまのその祭神はこういうふうになっている。
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その際、焼失した東照宮の処遇が問題となったものの、大石力が尽力し町民にとってこの場所がどれほど大切な場所であるか訴えて認められた。その後、大石力自身が建設委員長となり、敷地を処分しても寄付を受けず、鉄筋コンクリート造りの防火建築、銅板瓦葺き和風権現造りの社殿と社務所が建立された。引間城跡に1886年井上延陵により造営された東照宮社殿は戦災を受け消失したが、1958年再建されたのが、現在の社殿である。
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かなり広く、杉木立が鬱蒼として昼間でも薄暗い。社殿は元亨年中、豊島某が紀州の熊野権現を勧請したとかで、その後、何度か修復しているらしいが、いわゆる権現造りの立派なものである。「お内儀さんは、この後、不動滝へ行かれることになって居りまして、手前はここから一度、扇屋へひき返しました」 伊平が祈願の御札を持って歩いて、粗相があってはならないから、扇屋へおいてくるよう命じたという。
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現在の社殿は文化11年ないし宝暦7年の再建とされる。本殿は天地権現造り、境内社の天満宮は元本地堂、また同じく稲荷社は元宮である。
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境内は、本殿と神楽殿があり、その前が広場となっており、地域のこども達の遊び場となっている。奥殿は、間口七尺、行九尺権現造り、色彩彫刻あり。拝殿は、昭和17年4月17日類焼にあい、昭和19年に改築した。
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引間城跡に1886年井上延陵により造営された東照宮社殿は戦災を受け消失したが、1958年再建されたのが、現在の社殿である。鉄筋コンクリート造り、銅板葺きの権現造りである。
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