権現下郭
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また、1640年、加藤明成は城の追手を北にしたほか、天守を五層に改めた。江戸時代、現在の城南町周辺には、権現下郭、南町分などがあった。このうち、権現下郭は二ノ丸の南側に位置し、士屋敷、米蔵、寺院、神社などがあったとされる。
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江戸時代、現在の城南町周辺には、権現下郭、南町分などがあった。このうち、権現下郭は二ノ丸の南側に位置し、士屋敷、米蔵、寺院、神社などがあったとされる。また、町名の由来である熊野権現神社の近くには番所が置かれていた。
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その後、戊辰戦争を経て明治時代に入ると、江戸時代からの若松城下の町は再編され、明治はじめ、台町の一部から浄光寺町が分離されたほか、六日町は上六日町と本六日町となる。また、江戸時代の本丁、横道、米代、権現下郭のそれぞれ全部と、小田町、半兵衛町のそれぞれ一部から、あとに宮町の一部となる栄町が生まれている。加えて、鳥居町、横三日町など周辺の町名は、1889年まで若松を冠称していた。
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その後、戊辰戦争により現在の本町周辺は大きな被害を受けた。明治に入ると、江戸時代からの若松城下の町は再編され、本丁、米代、小田垣、横道、権現下郭に加えて、小田町、半兵衛町のそれぞれ各一部が合わさり、若松栄町となる。この町名は、前述のように戊辰戦争により周辺の地域が大きな被害を受けたため、以後栄えることを願い付けられたものされている。
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明治元年9月22日、戊辰戦争の戦いの結果、若松城は降伏し、開城する。明治時代に入ると、民生取締所、民生局による統治を経て、1870年に若松県が置かれたほか、江戸時代からの若松城下の町は再編され、本丁、米代、小田垣、横道、権現下郭に加えて、小田町、半兵衛町のそれぞれ一部が合わさり、若松栄町となった。栄町の町名は、戊辰戦争により周辺の地域が大きな被害を受けたため、以後栄えることを願い付けられたものされている。
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その後、戊辰戦争により現在の西栄町付近は大きな被害を受ける。明治時代に入ると、江戸時代からの若松城下の町は再編され、本丁、米代、小田垣、横道、権現下郭に加えて、小田町、半兵衛町のそれぞれ一部が合わさり、若松栄町となったほか、桂林寺町は若松桂林寺町となった。このうち、栄町の町名は、戊辰戦争により周辺の地域が大きな被害を受けたため、以後栄えることを願い付けられたものされている。
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若松城下に大きな被害を残した戊辰戦争ののち、明治時代に入ると、江戸時代からの若松城下の町は再編された。現在の本町周辺では、本丁、米代、小田垣、横道、権現下郭に加えて、小田町、半兵衛町のそれぞれ一部が合わさり、若松栄町となったほか、桂林寺町は若松桂林寺町、諏訪四谷は若松諏訪四谷、赤井町は若松赤井町、融通寺町は若松融通寺町、西名子屋町は若松西名子屋町と若松を冠称するようになった。このうち、栄町の町名は、戊辰戦争により周辺の地域が大きな被害を受けたため、以後栄えることを願い付けられたものされている。
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