権現さま
45 の例文
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あんなにまでして、わたしの思いが権現さまに通じないことがあろうか?
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そこにはりっぱな観音堂があるが、これらの木像のかっこう寸尺はついに聞き洩らしてしまった。御神体はまったく違うが、これに似た話がほうぼうの権現さまにもある。元来このゴンゲンサマというのは元蛇体の変化物で、形態はすこぶる似ているけれどもオカグラサマすなわちオシシとはぜんぜん相違している。
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権現さまという言葉が出たので、家光は形を改め、頭をたれて神妙の態である。が、眉間のたてじわが激しくぴくついていた。
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お福の直訴をうけ入れ、嫡庶を正して長幼の序を公示、家光を三代将軍につけてくれた大恩がある。権現さま、という言葉が出ると、家光は茵からおりて謹むのが常であった。今も、茵から急いですべりおり、姿勢を正した。
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これには役人もおどろいたそうだ。いかにあいてが悪人でも、権現さまのお名まえに刃はあてられねえ。
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権現さまは、生涯のうち、二十人近い側室をお用いになられた。それによって、十八人のお子を成されたのじゃ。
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かつては、三木松平家から奉納された「東照宮御神像」が安置されていた。そのことから「権現さまの寺」と呼ばれていた。御神像は木造で、束帯姿の坐像である。
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女は遅い昼飯をたべ、ならびの水茶屋に入ってゆっくりとお茶を飲んだ。それから来たついでに権現さまとお稲荷さんを参詣し、境内を見て歩いてから引き返して帰途についた。王子稲荷の門前から飛鳥山の麓にかけては、道の左右に飲み喰いの店がならび、その前を花見の客が絶えず往き来している。
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そのうち年くれて元和二年となりてほどなく、権現さま御他界にてこのこと止め候となり。その後、この儀をうけたまわり、御残り多きことなり。
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由加山の瑜伽大権現と讃岐国にあった金毘羅大権現を参る両参りと呼ばれる慣習が、江戸時代にはあったという。厄除けの権現さまとて信仰を集めている。平成19年総高7m59cmの日本一の木造仏像の不動明王が完成した。
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家光のほうは、父秀忠からも、御台所からも、口やかましい老臣からも解き放たれ、のびのびした毎日を送っていた。尊崇する権現さまがそうであったので、家光は特に鷹狩りを好んだ。二月十二日、手ずから鷹を放って得た鶴を明正天皇と後水尾上皇に献上するため、早馬を発たせている。
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寛政八年に社殿改修棟札の写しが残っていることから、少なくともその時期までにはこの地に創建されていた。かつて一帯は「谷畑」と呼ばれ、当神社も通称「谷畑の権現さま」と呼ばれた。境内には碑衾村村長で、村の耕地整理に貢献した、栗山久次郎の銅像がある。
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これに対して雅楽頭も、それに相当した反応を見せた。酒井の家には、権現さまの仰せおかれた御軍法その他の御書付があるというが、それを見せいと綱吉がいった。そのとき雅楽頭は、右の御書付は何びとにも見せるなという権現さまの御禁制がござりますから、たとえ上意でござりましょうと、さしあげることはなりませぬ、と答えた。
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乾坤堂は、あの晩お関がひとりで権現さまの森の中へいったことはむろん知らないから、話をきいて、眼をまるくした。
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権現さまというのは金井村の丘のうしろにそびえる山で、頂きに蔵王権現の御堂があるのでそう呼ばれているが本来の山の名は駒木山である。南東から吹いた風に、駒木山が障壁の役目をはたして金井村は大きな被害をまぬがれたということらしかった。
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されば、ここを往生場所とさだめ、一ぞくをつれ洛中からひき移ったのでございましょう。光悦が、なぜ権現さまから、そのようにひいきにされたかと申しますと、おやの光二の因縁からでございます。本阿弥家は代々、刀剣の目利き、磨礪《と ぎ》、浄拭をもって家業とし、足利将軍家にも仕えましたが、光二は今川義元や信長にも知遇をうけました。
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こうならべますと、この村の住人の様子が大体お分りのことと存じます。光悦がこの土地を権現さまから頂いた由来は、どなたも御存知ですから申上げるまでもございますまい。権現さまが大坂御帰陣のときに、所司代の板倉伊賀守さまに、光悦はどうしているかとおたずねになったときに、存命して居りますが、あの男は変り者で、京には住み飽いたからどこぞへんぴなところへ移りたいなどと申して居りますと伊賀守さまはおこたえになりました。
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