根本的な治水
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こうした最上小国川の治水対策としては堤防整備と河道掘削が主体となり実施されたが、周辺住宅地の拡大などで限界に近づいていた。この為山形県は最上小国川の根本的な治水対策を行うために1991年より新しい河川整備計画を検討した。この中で放水路案やダム案などが検討された結果、ダムによる洪水調節が妥当とする結論が出され、1995年度から「最上小国川ダム建設事業」として実施計画調査が開始され、2015年にダム本体の工事が開始された。
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だが、1930年に旧河川法の準用区域に指定されるまでは堤防も建設されておらず、改修が開始されても急流である為に簡単に堤防が決壊する状況であった。このため根本的な治水と利水が流域から要望されていた。戦後、置賜野川は砂防事業が1949年より施工されていたが、同年経済安定本部は打ち続く水害による経済復興の遅れを阻止する為に全国主要10水系を対象に「河川改訂改修計画」を策定。
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当時は河道の付け替えが主であり、蛇行を繰り返していた阿賀野川は下流部ではほぼ直線化していた。だが、その後も堤防決壊を伴う水害は繰り返し起こり、根本的な治水対策が次第に求められた。一方戦後の食糧事情を解決すべく、農林省主体で多くの国営農業水利事業が展開されたが、農業技術の発展と農地面積の急速な拡大で農業用水の需要が高まった。
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「国営野洲川農業水利事業」は1955年に完了したが、その後施設改良を行うため1974年より「国営造成土地改良施設整備制度」が施工され、ダム洪水吐などが改良されている。野洲川は天井川であり水害の被害も頻発していたが、野洲川ダムは洪水調節機能を有していないため根本的な治水整備は遅れていた。滋賀県はダム下流の甲賀郡土山町青土地先に1987年、補助多目的ダムである青土ダムを建設し、野洲川流域の治水と甲賀市等への上水道、湖南工業地域への工業用水供給を図った。
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このため江の川本流のみならず、上流部最大の支流である馬洗川流域における根本的な治水対策が求められた。一方、三次市や庄原市は古くから人口の密集する地域であったが、上水道は地下水や江の川からの直接取水によって賄われていた。
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これに対して由良川の河川改修事業は堤防の整備が主体だったものの、わずかな平地で利用される農地をつぶすことになるため整備が行いにくく福知山市周辺で堤防が建設されていた程度であり、綾部市などでは全く整備が遅れていて原始の河川形態であった。根本的な治水対策を図るためにダム計画がクローズアップされ、大野ダムは1943年より内務省により着手された。
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だが、夷隅川は大きく蛇行を繰り返す河川であり、これが河水の流下の阻害要因となって大雨の際には幾度と無く増水し、流域は浸水などの被害を受けていた。だが、河川改修は堤防の建設程度に留まり、かつ宅地化の進行によって新たな堤防建設が難しくなったこともあり、根本的な治水対策としてダムによる洪水調節が図られることになった。夷隅川本流はほとんどが台地または平野であるため、ダム建設に適した地点は無かった。
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根本的な治水対策が求められるようになった経済安定本部は1949年に利根川を始め全国主要10水系を対象に「河川改訂改修計画」を策定した。利根川については「利根川改訂改修計画」を策定、これに沿って建設省関東地方建設局は利根川水系に九基の多目的ダムを建設して利根川の総合的な治水を図ろうとした。
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姉川には関西電力によって曲谷ダムが建設されていたが、治水に関しては十分とは言えず、流域である江北地域は度々洪水による被害を受けていた。このため、滋賀県は姉川の根本的な治水計画として「姉川総合開発事業」を策定し、その中心として治水ダムとして姉川ダムの建設を1977年に計画した。
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カスリーン台風による利根川の大水害を皮切りに敗戦直後の日本を連年襲う水害は、敗戦で疲弊した日本経済の復興に対する大きな障害であった。これを懸念した内閣経済安定本部は諮問機関である治水調査会に諮り根本的な治水対策を検討する。具体的には物部長穂が戦前提唱した河川総合開発事業による水系一貫の治水計画の採用である。
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ところが戦中の森林乱伐から全国各地で水害が多発、宮城県においても1947年のカスリーン台風、翌1948年のアイオン台風、さらに1950年8月の豪雨により、甚大な被害を受けた。特に1950年8月豪雨は名取川水系に過去最悪の水害をもたらし、根本的な治水対策が求められた。
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かつては西濃用水の水源としてのかんがい機能も有していたが、徳山ダム完成に伴い同機能を移行している。揖斐川は古来より氾濫を繰り返す河川であり、大垣市を始め流域市町村は根本的な治水対策を岐阜県に要望していた。これに応じ県は1951年より補助多目的ダムとして揖斐川河口より約80km地点である横山地先にダムを建設する計画を進めた。
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奈良井川から直接取水するという従来の方法では上水道用水の需要に供給が追い付かない状況となっていった。長野県はダムの洪水調節機能による奈良井川の根本的な治水と同時に、流域農地への既得用水確保のための不特定利水、塩尻市・松本市に供給する上水道用水の確保を目的とする「奈良井川総合開発事業」を計画。その一環として奈良井ダムが補助多目的ダムとして奈良井川上流に建設されることになった。
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排水路は三つ設けられたため三ツ割普請と呼ばれ、後に桑原川の原型となった。江戸時代を通じて排水条件は悪化していったが、明治時代に至り輪中地域全体で根本的な治水を行う機運が高まり、明治16年には桑原輪中木曽川長良川逆川水利土功会が桑原輪中内の23村により結成され、木曽川下流改修を迎えた。木曽川下流改修では桑原輪中の南側で合流していた木曽川と長良川が背割堤で切り離されたほか、小藪輪中西側で西側に大きく湾曲していた長良川を直線化するため小藪輪中の内部を貫くように流路が変更されて小藪輪中が分断した。
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戦後森林の乱伐等で全国的に水害が多発したが淀川でも例外ではなく、1953年の台風13号では宇治川の堤防が決壊し宇治市等流域市町村に多大な損害を与えた。この台風13号での淀川の洪水流量は過去最悪のものであり、これを機に淀川流域の根本的な治水対策として建設省近畿地方建設局は「淀川水系改修基本計画」を実施。この計画の一環として計画されたのが天ヶ瀬ダムである。
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だが紀の川は渇水時には容易に水不足に陥る流況が不安定な河川であり、安定した水供給が大きな課題となった。一方で1959年の伊勢湾台風による紀の川大水害を教訓に『紀の川修正総体計画』が1960年に策定され、根本的な治水を図るため奈良県吉野郡川上村の紀の川本川に大滝ダムを建設する事となった。更に紀の川下流域における治水、特に紀の川の河水が支流に逆流することで起こる「内水氾濫」を防止する為に河口部の洪水調節も必要となった。
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