柳永二郎
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名詞
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文ビル、今日は渡辺篤が出て来ず、はま子が大阪へ行って、三益は東宝劇団のマチネーで、ゐないから碌に出来ない。山田伸吉が柳永二郎の娘を連れて来て、頼むと言ふ、顔がいけない。支那グリル一番で夕食し、放送局へ行く。
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日本初の本格的映画女優といわれる。同じ女優の永井百合子は柳永二郎との娘、俳優の長谷部健は中野英治との息子。
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永井 百合子は、日本の女優。両親は俳優の柳永二郎と女優の英百合子。
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年2回の名人会には、錦城山典山・三代目神田伯山・四代目柳家小さん・初代三遊亭円右・七代目富士松加賀太夫・豊竹呂昇らが出演して、盛況だったと言う。日曜・祝日には子供向けのお伽芝居をやり、これには栗島狭衣・柳永二郎・栗島すみ子・梅村蓉子らも関係した。この子供デーは帝国劇場合併時まで続いた。
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細川忠興役は、同じ井上正夫門下の山村聡がつとめた。また、「新日本劇」時代の同僚だった柳永二郎や、娘婿に当たる小林重四郎なども出演した。この作品は、夫が団長をつとめるカトリック平和使節団がローマを訪問した際、同地で上映され、3年後の1955年には、『戦国異聞』の題名で日本でも公開された。
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まだ十一時二十分前ハネ。柳永二郎、娘のことをたのみに楽屋へ来る。二戸儚秋も来り、東宝入社のこと頼まれる。
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その後は、八重子の芸術座に所属するとともに、1929年8月には、日本ビクターが発売した『悲しき遍路』全4枚に、佐藤千夜子の独唱に対して、山本かおるとの芝居の録音に参加している、翌月には同じく日本ビクターが発売した『江州音頭 木下藤吉郎』全4枚を佐藤千夜子らとともに吹き込んでいる。同月、日本コロムビアが発売した演劇レコード『獅子に喰はれる女』全4枚に八重子や柳永二郎とともに出演し、同年11月1日に公開された発声映画社による『大尉の娘』に出演している。
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獅子文六は、横浜の絹物商の子で、岩田豊雄の本名で書いた「朝日屋絹物店」という芝居があり、新劇座で、柳永二郎と村瀬幸子が共演したのが、昭和九年である。明治二十年に、手工でハンケチを作る女の工員が熱をあげて見る大衆劇を、「ハンケチ女工がハンケチで泣く芝居」といい、当人は喜ばないはずだが、ハンケチ役者という表現もあった。
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柳永二郎・英太郎夫妻に、山田伸吉夫妻、それにクス子姐さんや堀井夫妻もあらはれ、麻雀やり始めたが、新派ルールで、何か名のある役以外はアガリ無しだから、しんから面白くはない。六時に急いで座へ。
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但し、これは、他の芸術家一般に当てはまることであるが、この怠慢は、当然、ある台詞にぶつかつた場合、自分の「抽斗にある言葉」だけで間に合はせようとし、概ね、似て非なる結果が生ずるのである。先日、帝劇の夜の部の舞台を通じて、柳永二郎と大矢市次郎とが、それぞれ、一句づつ、名「せりふ」を聴かしてくれた。
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井上正夫が独り立ちした。花柳章太郎、柳永二郎、伊志井寛らの若手が育って、1939年に新生新派を分家した。そういう時代の流れの中で、河合は新派の本流に留まり、手馴れた持ち役を演じ続けた。
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京都市北区の北大路通近辺の自宅のほか、東京・下北沢のモダンなアパートメントハウスとして知られた「秀楽園」に事務所を構えていたという。御荘金吾によれば、下村は古書画や浮世絵にも造詣が深く、1977年の「川上音二郎・貞奴展」で展示された川上音二郎の書簡にまつわり、宛先の野村芳国が野村芳亭の実父であり、野村芳太郎の祖父であることを指摘し、柳永二郎や岡部龍らを感嘆させたという。岸松雄によれば「ハニカミ屋で、あまり人とつきあいたがらない性質」「温厚寡黙、決して敵をつくらない人」であったという。
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いゝ天気だが、まだ寒い。座は大満員、英太郎楽屋へ来る、柳永二郎も。今日は屋井が新派連を呼んだので喜多村御大以下来てる、島田正吾、ひょっくり現はれる、スターオンパレードだ。
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新派系の劇団を転々としたのち、1939年に花柳章太郎・伊志井寛・柳永二郎・川口松太郎・大江良太郎らと、劇団『新生新派』を旗揚げ、戦後の劇団新派結成へも関わり、新派に欠かせぬ中心メンバーとなる。
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芝居済むと、一緒に大阪へ出て、竹川へ行き、麻雀。柳永二郎、英太郎、大矢市次郎で徹宵、奇抜な、めちゃガメリ麻雀で、面白くないが、暁近くなると例の喋りでアホっちまひ、大分負けてたのを千プばかりで助かり、午前七時竹川に泊る。
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