松山茂助
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名詞
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ニッポンビールの苦戦と共に愛飲家からサッポロビール復活が望まれ、1956年にまず北海道で復活して1957年から全国でサッポロビールを発売し、1964年に会社の商号を「サッポロビール株式会社」とする。サッポロビールの商標復活に、ビール業界で数少ない醸造技術者出身の社長である松山茂助が尽力した。
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同年10月、慶應義塾中等部の父兄同士という縁から親しくなった日魯漁業社長平野赳の肝煎りで、銀座月光荘ビル地下1階に限定会員制アートクラブ「サロン・ド・クレール」を開設し、その女主人となる。このサロンには、松山茂助、小山五郎、太田剛、伍堂輝雄、北裏喜一郎、永野重雄、武見太郎、谷村裕、駒井健一郎、渡辺省吾、斎藤英四郎、岡田茂、金鍾泌、松前重義、千宗室、三島由紀夫、浅利慶太、相沢英之、中曽根康弘、石田博英、円城寺次郎、嘉門安雄といった財界人や文化人が集まった。一方で、月光荘の資金源として浅田満や森下安道、北見義郎、小谷光浩といった「闇人脈」が関与していたことも指摘されている。
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