末期から平安時代初期
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一方、鹿島神宮にも布都御魂剣または韴霊剣と称する巨大な直刀が伝わっている。由来は不明であるが、奈良時代末期から平安時代初期の制作とされる。国宝に指定されており、鹿島神宮の宝物館にて展示されている。
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和気 広世は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族・学者。民部卿・和気清麻呂の長男。
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菅遺跡からは縄文土器・土偶片・須恵器などが出土、西菅遺跡からは住居跡が発掘された。奈良時代末期から平安時代初期に建立された八角円堂という渡来人の仏教施設が発見されている。平安時代末期小沢城が稲毛重成によって築城される。
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藤原 黒麻呂は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。藤原南家、参議・藤原巨勢麻呂の次男。
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藤原 雄友は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての公卿。藤原南家、右大臣・藤原是公の次男。
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香西洋樹と古川麒一郎が東京天文台木曽観測所で発見した。奈良時代末期から平安時代初期の備前国藤野郡出身の役人、和気清麻呂から命名された。
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藤原 園人は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての公卿。藤原北家、参議・藤原楓麻呂の長男。
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大墓公阿弖流為 / 大墓公阿弖利為は、日本の奈良時代末期から平安時代初期の古代東北の人物。
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和気 清麻呂は、奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。磐梨別乎麻呂の子。
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実際に、古代駅路と高速道路の設定ルートや、駅家とインターチェンジの設定位置が、ほぼ同一となっている事例も多く見られる。奈良時代最末期から平安時代初期にかけて、行政改革が精力的に行われたが、駅伝制においても駅家や駅馬、伝馬の削減などが実施され、伝路は次第に駅路へ統合されていくこととなった。ただし、地域の実情と無関係に設置された駅路は次第に利用されることが少なくなり、従来の伝路を駅路として取り扱うことが多くなった。
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中でも最後の百済王義慈王の王子の禅広は、持統天皇より百済王の氏姓を賜り、百済系氏族の代表的な存在となった。さらに奈良時代末期から平安時代初期にかけて、鑑真に同伴したコーカソイドに属するソグド系とされる僧侶の如宝も広義的には渡来人に含まれる。帰はもと歸であり、元いた場所に戻る意味のほかに、従い服従すること、嫁に行くなどの意。
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なお、以上のような解由制は、主に国司の事務引継ぎを対象とするものだった。奈良時代末期から平安時代初期にかけての桓武天皇は、国司の任務遂行の徹底を企図して、延暦元年、後任が到着して120日経過しても解由状を得られない官司は、厳しい処分を受けることが定められた。さらに延暦16年ごろ、解由状の審査に当たる勘解由使が新たに設置された。
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中将姫については、藤原豊成の娘とされているが、モデルとなった女性の存在は複数想定されている。當麻寺本堂に現存する、曼荼羅を掛けるための厨子は奈良時代末期から平安時代初期の制作で、当麻曼荼羅の原本は遅くともこの時代には當麻寺に安置されていたとみられる。しかしながら、曼荼羅の伝来や由緒にかかわる資料は平安時代の記録には見当たらず、曼荼羅の「縁起」が形づくられていくのは鎌倉時代に入ってからである。
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後に多賀城は、現在の仙台市宮城野区岩切に移転したと考えられているが、遺構は発見されていない。奈良時代末期から平安時代初期、仙台平野北部・三陸沿岸の蝦夷がたびたび大和朝廷の拠点を襲撃し、三十八年戦争が勃発した。伊治を拠点とするアザマロは当初大和朝廷側に帰属し多賀城に出仕していたが、蝦夷への差別に怒って反乱を起こし多賀城を滅ぼした。
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淳仁朝では、息子3人を参議に任じ、自身は人臣初の太政大臣まで昇りつめたが、天平宝字8年恵美押勝の乱により失脚した。その後奈良時代末期から平安時代初期には、武智麻呂・房前の弟宇合に始まる藤原式家が台頭し、南家の勢力は低落する。桓武朝において、豊成の子継縄と武智麻呂三男乙麻呂の子是公が続いて右大臣となったものの、続く平城朝の大同2年に当時政権二番手、三番手の座にあった大納言藤原雄友・中納言藤原乙叡が伊予親王の変に連座して失脚し、豊成・乙麻呂の系統も衰退した。
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大枝 諸上は、奈良時代末期から平安時代初期の官人。氏姓は土師宿禰のち大枝朝臣。
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