日本映画俳優名鑑昭和
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同作を映画デビュー作とする資料も存在するが、それ以前の出演歴は上記の通りである。時期は不明であるが、同社の俳優で同い年の守本專一と結婚しており、1928年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』にはその旨の記述がなされている。
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片山には妹・貞子がいて、島の長女にあたるが、大谷の実娘か否かは不明である。離婚・再婚の時期は不明であるが、『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』が発行された1929年の時点では、すでに俳優の志茂山剛の妻とされている。島との間の長男・片山明彦は、のちに島と結婚した女優の片山夏子が育てた。
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本田の来歴については明らかでないが、『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』が発行された1934年の時点では、すでに故人であるという旨が記されている。また1937年に発行された『俳優大鑑』によれば、生年月日・享年は明らかにされていないものの、「明治卅八年十一月五日死」であるという旨が記されている。
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同年6月15日公開の稲垣浩監督映画『天下太平記』をはじめ多数の作品に出演するが、1929年2月に独立、同館主聯盟が建てた貸しスタジオの双ヶ丘撮影所内に武井龍三プロダクションを設立する。同年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』及び1934年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』によれば、日本キネマを設立したという旨が記されているが、同プロダクションの別称又は誤りであるかどうかは不明である。同年4月7日公開の双ヶ丘孝監督映画『金剛呪文 前篇』などを製作するが失敗に終わる。
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初期に「押本映治の実兄」説が流れ、『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』の両名の項目にもその旨の記述がされたが、『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』では「押本映治」の項で「押本七之助を兄に持つはあやまりである」と否定している。現在では『日本映画監督全集』でもこの件は言及されていない。
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島津監督の『春ひらく』では主演、小津安二郎が監督した『カボチヤ』で主役の斎藤達雄の妻を演じ、清水宏監督の『山彦』では、主役の河原侃二の妻を演じた。同年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』には、入社前に井上の指導で1年間程度、劇場に出演していた旨の記述があり、ほかには、趣味は「社交ダンスと水泳」、住居は「府下蒲田町松竹キネマ蒲田スタヂオ」と記されている。翌1929年1月8日には、松竹キネマが新しく導入した「幹部制度」において、井上正夫、岩田祐吉、藤野秀夫、川田芳子、栗島すみ子、柳さく子が大幹部、田中絹代が幹部、そして日夏は、斎藤達雄、結城一郎とともに、準幹部に昇進している。
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ただし同時代資料である『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』の「中村吉松」の項には「1900年12月27日」生まれである旨の記述が存在する。
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同年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』では「川田弘道」、翌1929年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』では「川田弘三」の名でそれぞれ掲載されている。
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夫の高木が同年、東京の日活多摩川撮影所に異動しており、山下はこの時点で事実上引退している。同年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』には、山下の住所は京都市右京区鳴滝桐ケ淵町、高木の住所は神奈川県高座郡相原村橋本のものが記載されている。その後の高木についても、1942年以降の出演記録が不明である。
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事故の前日である7日に公開された『春の目醒め』が最後の出演作となった。同年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』の原の項目によれば、身長5尺、体重17貫、京都市上京区北野白梅町に在住していた。
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父は俳優の五味國太郎、妹はのちに女優の五味國枝になった。生年月日については、初期の文献である『日本映画年鑑 大正十三・四年』には「明治三十年一月二日」、『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』では「明治三十年一月元旦」とされている。新派の舞台俳優であった父の影響下にあって、幼少時から舞台に立った。
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以後、マキノの中堅俳優として多数の作品に出演した。翌々年1928年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』など一部の資料によれば、京都府葛野郡花園村天授ヶ丘、京都府京都市一条通大将軍坂田町7番地と転々と住み、趣味は絵描き、ダンス、散歩であり、洋酒と外国煙草が嗜好であるという。
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翌1934年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』によれば、蒲田区道塚町189番地に住み、身長は5尺4寸、体重は13貫、趣味は音楽で、中華料理が嗜好であるという。
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本名については、『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』や『芸能人物事典 明治大正昭和』、あるいは『日本映画俳優全集・女優編』には「須田 シヅ」とあるが、『著作権台帳 昭和26年度版』および『婦人年鑑 12』には「加藤 しづ」あるいは「加藤 シヅ」と記されている。
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また、殺陣師としても活躍していた時期もある。翌々年1929年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和五年版』によれば、京都府葛野郡花園村斎宮町、奈良県生駒郡生駒町と転々と住み、身長は5尺4寸1分、趣味は散歩と読書で、甘味の物とバナナが嗜好であり、好きな俳優はロン・チェイニーと大河内傳次郎であるという。マキノ・プロダクション解消後、東活映画を経て1933年1月15日、市川右太衛門プロダクションに入社。
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同年に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』によれば、京都府京都市右京区鳴滝中道町に住み、身長は5尺3寸、体重は13貫500匁、趣味は麻雀、ピクニックで、中華料理が嗜好であるという。同年夏、日活京都撮影所に移籍、同年9月23日公開、同撮影所が製作した辻吉郎監督の『槍供養』に主演する。
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