新羅系渡来
17 の例文
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すなわち、佐々木源氏ともいわれる近江におこった源氏は、新羅系渡来人から出た者だったのである。
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こまは、馬のようだが、あるいは、高麗は朝鮮だから、大陸にいると空想した猛獣であって、それを日本の神がしずめるという意味のようだ。しかし、私にいわせるならば、それが「日本の神」であることにちがいはないけれども、それはあとからそこへ入って来た新羅系渡来の者と、先住の高句麗系の者との葛藤から生じたものではなかったかと思われる。その阿南町にも白髭神社があるのかどうかは知らないが、しかしなくても、そこの「八幡さま」が宇佐八幡宮の流れを汲むものであったとすれば、田村円澄氏の『古代朝鮮仏教と日本仏教』にもあるように、それも新羅系のものであるから同じということになる。
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まだ摂津がつづくが、新羅系渡来の難波吉士氏のことをみたついでに、難波における新羅系のそれをもう少しみることにする。
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私にはもとよりそう「なるべけんか」どうかわからないし、また、児島高徳なる人物が実在したかどうかもよくわからない。しかしにもかかわらず、新羅系渡来の秦河勝を祭った大避神社に墓があるその児島高徳もまた、新羅系渡来人集団の象徴であった天日槍から出ているというのがおもしろいので紹介した。
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「秦の地」ということを意味した幡羅郡ばかりでなく、男衾郡、比企郡などにしても同様で、北関東のここもまた同じ新羅系渡来の吉士氏族が展開したところであった。シリーズ第一冊目の本書が出たあとの一九七四年七月に出た、埼玉県高等学校社会科教育研究会歴史部会編『埼玉県の歴史散歩』をみると、有名な小川町の和紙について、こういうことが書かれている。
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それで私は、ここでちょっと考えたのであるが、もとは新羅の斯羅ということであったはずの比良山麓にある近江の有名な白鬚神社といい、亀山のこの白髭というのも、もとはやはり、新羅ということからきたものではなかったかと思う。新羅にしてもそのもとは「新しい国」ということであったから、新羅系渡来人の住みついたところとみられる中心地が、新羅=白髭だったとしてもふしぎはない。そのことはこの布気・白髭神社の近くに白木山があったことからもいえるように思うが、さらにつづけて、『亀山市の文化財』の頁をくってみると、そこには白木国分寺というのがあり、また鶏足山野登寺というのもあってこうある。
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泉大津にも、もとは古代朝鮮の安那から来た安那志、阿那師神社であった泉穴師神社や、『日本書紀』天武四年条にみえる「曾禰連韓犬」という、そんな妙な名のものと関係ある曾禰神社があったが、もうすっかり暗くなってしまって、そこまで行ってみることはできなかった。それからまた、そのさきの泉佐野市には新羅系渡来氏族である日根造の祖神を祭った日根神社があり、さらにまた貝塚市はこれも新羅系のそれだった近義首の近義郷のあったところだったが、それらはどれも省略ということにするよりほかなかった。姜さんが約束したという時間に、勤めている高校からまっすぐやって来てくれた門林さんは、かなりの巨漢で、神社の宮司といったイメージとは相当にちがった感じの人だった。
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それは多分、さきにみた上野隣接の武蔵の秩父における銅の発見と関係があったのではなかったかと私は思う。新羅系渡来の金上元らによるその銅の発見によって、日本の年号が和銅となり、はじめて「和銅開珎」なるものができることになったことも、さきにみたとおりである。すなわち、私はその産銅にたいする論功行賞が、多胡郡新設となってあらわれたのではなかったかと思うのである。
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壬申の乱の大海人皇子方の功臣。三宅氏は数流あるが、石床は新羅系渡来氏族に属し、その系統は新羅王族の天日桙の後裔とされる。壬申の乱の勃発時、三宅石床は伊勢守であったと推測されている。
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聖徳太子と秦河勝というコンビは、京都・太秦の広隆寺にもみられるものであるが、秦河勝とはいうまでもなく、新羅系渡来氏族のそれである。してみると、一方は高句麗から渡来の僧恵便であり、一方は新羅から渡来のそれとなっている。
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古墳が集中しているのもそのためで、いまみた佐々木氏所有の「新羅・印花文骨壼」もそういった古墳の一つがこわれて、「近くの川べりから発掘されました」となったものにちがいない。ということは、佐々木氏も書いているように、それらの古墳は「江の川を遡って三次盆地に住みついた」新羅系渡来人の築いたものであったということをものがたるものにほかならなかった。そうだったから、私は呉よりもむしろその三次をたずねるべきだったかもしれないが、しかし私に都合があって、瀬戸内海寄りの呉へ向かうことにしたのである。
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三宝の僧侶よりずっと下層の造瓦工たちは、そうすることである種のうっぷんを晴らしていたのであろうが、そういう面からみても、信太寺のこれは大きな発見であるといわなくてはならない。泉佐野市の日根野に展開していた新羅系渡来の日野氏族などを別にすると、和泉・河内には百済、高句麗系渡来氏族が「目白押しとなっていた」ことを私は本文に書いたが、しかし、和泉にもそんな信太寺のような寺院があったとは知らなかったものだった。要するに、私の手元にある新聞の切抜きだけとってみても、四六判の本書が出て以後、この十年ほどのあいだには、新たにまたいろいろなものが発見されているのである。
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さきにみた韓泊と関連があるのかどうか、加古川市の木村には新羅系渡来豪族の秦河勝が建立したという泊神社があったが、それはおいて、私たちは同市北在家の鶴林寺にいたった。いまさっきちょっとふれたように、この鶴林寺にも有名な朝鮮鐘がある。
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しかしながら、造船のことをつかさどったものとみられる猪名部というものがあったことは事実のようである。新羅系渡来氏族の秦上社であった伊居太神社境内にある猪名津彦神社の猪名津彦も、もしかするとそれから出たものではなかったか。するとこれも、大豪族秦氏の部民であったかもしれない。
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「山神」とはそれも朝鮮にはいたるところにあって、私にはなつかしいようなものだったが、読者はここでまた、私がこの項のさいしょのところで引用した『一志郡史』中の諸豪族のそれを思いだしてもらいたい。なかに、「竹原氏 竹原村竹原 新羅帰化族」とあったはずで、すなわちいま美杉村の竹原にあるこの竹原神社は、その新羅系渡来人であった竹原氏族の氏神だったのである。そしてもとは、これも白山比〓神社だったのであった。
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しかしながら、新羅から渡来して木工・造船などに従事していた猪名部というものがあったことは、事実のようである。してみると、新羅系渡来氏族であった秦氏の上社、伊居太神社境内にある猪名津彦神社の猪名津彦というのも、もしかしたらその猪名部から出たものではなかったか。するとこれも、大豪族秦氏の部民であったかも知れない。
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