斯道
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名詞
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こうした巷説にもかかわらず瀬谷が展覧会へ出品した片野の菊は、稀有の名花として好事家連を驚倒させた。その評判を聞いて斯道の専門家達がはるばる都から観に来たくらいである。片野の果樹園は失踪した彼の息子の行方が分るまで、親友の葬儀をとり行ってやった瀬谷の監理にまかされることになった。
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そのような幾通かの来信によってはじまった交際のうち、私をもっとも感動させたのは、高知大学農学部の中川進先生であった。先生は年こそ私よりお若いが、斯道では文句なく先輩格といってよい。私がトライしたかまぼこ、ハムはもちろん、バター、チーズ、ベーコン、ソーセージ、ジャム、塩コンブ、手打ちうどんなどの自製から、最近は豆腐の自家製造まで開始されている、ときいては、中途半端の私なぞ、兜をぬがざるをえない大人物である。
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それに龍造寺其他の諸士が、いづれも裃で並んでゐる前で、九華が家臣某に扮して『屋嶋』の仕舞を見せるので有つた。九華は斯道では大分苦労をしてゐるので、本行と来ては普通の俳優以上。
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泰州出身の清濬は慶元で『混一疆理図』を作成した。重要な文献を残したことで知られる烏斯道もまた慶元出身であった。当時から寧波は重要な港の1つであり、福州、広州、東南アジア、日本、高麗と交易があった。
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我々は事もなくフグ料理に酔ひ痴れてゐるが、あれが料理として通用するに至るまでの暗黒時代を想像すれば、そこにも一篇の大ドラマがある。幾十百の斯道の殉教者が血に血をついだ作品なのである。その人の名は筑紫の浦の太郎兵衛であるかも知れず、玄海灘の頓兵衛であるかも知れぬ。
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あたかもよし金田一耕助という斯道の天才が来合わせているのである。しかも、その金田一耕助もこの事件に、かなりふかい興味と関心をよせているらしい。
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自分の意見をどこまでも主張する人である。女子の斯道にもこんな大先輩があったらと羨ましく思われる。
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それから、今日においても別に何んのお役に立ったこともありませんが、今日も引き続き帝室技芸員として恩典にあずかっているのであります。心ばかりは、何かと斯道のために尽くしたいものであると思いおる次第であります。ついでながら今日の帝室技芸員で在京の人々の顔触れをいって置きましょう。
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さうして気が向けば、いくらでも、蔵から出して来て、客の前に陳べたものである。父の御蔭で、代助は多少斯道に好悪を有てる様になつてゐた。兄も同様の原因から、画家の名前位は心得てゐた。
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李氏朝鮮で作られた地図の意義は、2つの中国地図を結合したことにあるだろう。もっとも、同じことがすでに烏斯道による春草斎集でなされている。烏斯道は『広輪図』と李汝霖による『声教被化図』の統合を試みている。
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もっとも、後に述べる烏斯道の言からは声教広被図が清濬の地図よりも新しい可能性もある。道士の清浚が作った『混一疆理図』もまた失われている。
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要するに甚だ儀礼的なそれは所作としか一般にはうつらない。斯道をきわめた者だけが、間合の取り方ひとつにも滋味を見出し得るのである。紅白試合は、鉢巻に紅と白の手拭を用い、白襷に素面素籠手、木刀を携えて互いに道場内に相対して勝負する。
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故人は戦前戦後をつうじて四十年近く、斯道一本にうちこんできた人であった。いわば地の塩であった。
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尾張の連浜主はわが朝に初めて笛をひろめた人で斯道の開祖として仰がれている。ことしは天保九年で、今から逆算すると九百九十年前は仁明天皇の嘉祥元年、すなわちかの浜主が宮中に笛を奏したという承和十二年から四年目に相当する。
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すなわち、西土の堯・舜・夏・殷・周の治教などを取り入れて皇道に役立てた。これによって「斯道」はいよいよ明大になって完成した。しかし中世以降、異端邪説が民を欺き世を迷わし、俗儒曲学が自国を捨て外国に従い、皇化が衰え禍乱が続き、大道が世に明らかにならなくなって久しい、と。
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こんな風に身体中不潔だらけの法院長は、その趣味もまた身体にふさわしく下劣きわまるものだったから、そばへ寄れば実に悪臭芬々たる有様で、誰からも嫌われるような人物だった。しかし斯道の人たちは、こんなつまらないことで眉をひそめるような人たちではなく、彼らだけが法院長に口をきいたのである。この法院長ほど、下劣で放埒な人物は滅多にいなかった。
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興津の太田三男氏等の厚誼によつて、本書をその実物で飾るに至つたことは感謝の至りである。製作したのは永年斯道に尽瘁された山本国蔵氏の技による。別に経木綿糸、緯楮糸の紙布を添へた。
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