文明論之概略
全て
名詞
16 の例文
(0.00 秒)
-
福澤諭吉は、高尚を品格ある人間になることという意味で用い、「教育の目的」では高尚になることこそが人類にとってこの上なく大きい幸福につながると考えた。また、『文明論之概略』においては人間の道徳性と知性の高まりによって自然と精神の高尚さも高められるとも考え、物質的な豊かさとともに文明を形成するとした。
...
-
言うまでもなく、福沢諭吉は、わが国の精神史が、漢学から洋学に転向する時の勢いを、最も早く見て取った人だが、この人の本当の豪さは、新学問の明敏な理解者解説者たるところにはなかったのであり、この思想転向に際して、日本の思想家が強いられた特殊な意味合いを、恐らく誰よりもはっきりと看破していたところにある。これは私の勝手な忖度ではなく、「文明論之概略」の緒言が明らかにしているところだが、本文は緒言を隠し勝ちなものだ。彼は次のような意見を述べている。
...
-
私達は、一面では、高が私情に過ぎないが、一面では立国の公道であるような厄介な或るものを抱いて生きて行かねばならない。惟うに、この人間として避けられぬ困難に対し、福沢は、「文明論之概略」を書く時に出会った困難、即ち「一身にして二生を経るが如」き困難に対するのと同じ態度を取った。進んでこれを容認する事によって、これを思想の推進力と変ずるという、この現実に即した思想家の手腕は、彼の思想の動きを一貫する電流の如きものである。
...
-
何れにしても外債は我國の經濟にからみ付たる肺病と云ふ可し。前日余が著述したる文明論之概略第六卷の四十二葉に、巨艦大砲は以て巨艦大砲の敵に敵す可くして借金の敵に敵す可らずと云へり。
...
-
福沢は、世俗啓発の目的の為に、世俗の文を作らんとして、独特の名文を書いて了った。「学問のすゝめ」や「文明論之概略」が、あれほど読まれたのは、ただ、世人の為に運らされた平易な解説だったが為とは考えられまい。やはり、世人は福沢という独特な人間を、そこに嗅いだのである。
...
-
-
また、西周は1874年に『明六雑誌』創刊号に掲載した「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」において、「洋字」、すなわちアルファベットを用いたローマ字で日本語を表記すべきと主張した。脱亜思想を示した著作としては、福澤諭吉の『学問のすゝめ』や『文明論之概略』などがある。福澤諭吉は『福翁百話』の第34話「半信半疑は不可なり」において、次のように脱亜思想を説明している。
...
-
西洋列強に追いつくためにはまずもって技術の吸収が必要であったが、福沢は社会の仕組み、特に議会に興味を示し、理解するためには歴史の参照が不可欠と悟った。こうして書かれたのが『西洋事情』『文明論之概略』などの著書であり、イギリス帝国の繁栄の根本を探るという問題意識から、また当時の入手できる書物という点から、自然とホイッグ史観の歴史書に触れることになった。いっぽう竹越与三郎のように、専門的で退屈・小難しい歴史をきらい、多くの人にわかりやすい歴史を書くべきという観点からホイッグ史観を選択する者もいた。
...
-
これは従来の日本にない新しい歴史観であり、歴史の中に普遍的な法則性を見出そうとする歴史観であった。この影響のもと、在野において書かれたのが田口卯吉『日本開化小史』や福澤諭吉『文明論之概略』などである。これは日本史と西欧史の共通点を強調する方向へ進んでいった。
...
-
同朋の中国人に対しても、清では西洋の翻訳は軍事技術のものばかりであるため、日本での翻訳書や日本人が書いた政治経済に関する著作を学ぶことを薦めた。たとえば、上に挙げた雑誌に断続的に掲載された梁の代表作の一つ「自由書」にはヘンリー・バックルや福澤諭吉、徳富蘇峰の影響が、「新民説」には福沢の『文明論之概略』やの国家有機体説の影響がうかがえる。彼は明治日本を通じて清末の青年たちに向けて中国以外の思想やものの考え方をわかりやすいことばで発信し続けた。
...
-
漢書生と洋学者とは、我等の両身であり、両身相較する自己を実験台としなければ学問論も文明論も書く事は出来ぬ。彼は、「西洋文明の為に東道の主人と為り」「洋学の実利益を明にせんことを謀り、あらん限りの方便を運らす其中にも、凡そ人に語るに、物理の原則を以てして自ら悟らしむるより有力なるはなし」と考えていたが、「学問のすゝめ」は科学方法論ではないし、「文明論之概略」は、新文明説入門でもない。福沢諭吉という人間が賭けられた啓蒙書なのである。
...
-
詐欺師の騙しの技法はその例と言える。福沢諭吉は、「文明論之概略」において「其外国交際の法の如きは、権謀術数至らざる所なしと云ふも可なり」と述べている。チェーザレ・ボルジアは権謀術数を駆使して支配領域を拡大するなど波乱の生涯をおくり、チェーザレの政治的力量をみたマキャベリは『君主論』を執筆した。
...
-
田口は旧幕臣出身の在野史家で、大蔵省翻訳局時代に執筆された。福澤諭吉『文明論之概略』とともに在野史学に影響を与え、近代日本史学史上で、明治初期刊の史書の代表作に位置づけられる。原本は和装で6分冊。
...
-
この工部大学が、東大工学部の前身であるから、高峰は、東大工学部の第一期生といってよい。高峰にとっての、青春時代の思想的背景は、『自助論・西国立志伝』であり、『学問のすすめ』であり、そして『文明論之概略』であったろう。彼らの青春は『教育勅語』の影響を受けるべくもない時代であった。
...
-
いや、『文明論之概略』も『即興詩人』も『赤光』も『断腸亭日乗』もみなさうではないか。その文語文をちつとも読ませず、口語文ばかり当てがつておくのでは、いつまで経つても古典が読めるはずはないのだ。
...
-
一方、福沢諭吉・馬場辰猪・小野梓らによる民間の条約改正論がいっそう高まり、自由民権運動においても地租軽減などと並んで条約改正による国権回復が叫ばれた。福沢諭吉は、早くも1875年の段階で、『文明論之概略』において「自国の独立」を論じ、人民相互の同権とともに外交上の同権を論じており、馬場辰猪は1876年10月、英文でみずから著述した『条約改正論』をロンドンで出版している。日本の知識人の多くがハートレー事件やヘスペリア号事件により、法権の回復がなければ国家の威信も保たれず、国民の安全や生命も守ることのできないことを知るようになった。
...