敗戦必至
7 の例文
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東條が最初にいったことばは、つぎのことばだった。「知識階級の敗戦必至論はまことに遺憾であります」 これによって東條がどのような意見を述べるか、天皇も藤田尚徳も知ったであろう。
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後の自著において小島は投降の決断理由を、部下の命を救うことが目的と述べており、また、かつて暗号士として極秘情報を扱っていたために日本が敗戦必至と理解していたこと、本来は投降者は軍法会議にかけられるが、日本が敗戦すれば軍法会議もなくなると見ていたとも述べている。また、小島は学生時代にアメリカのことをよく学んでいたため、「鬼畜米英」のような悪感情がなかったこと、学校でも教師に盲従するような優等生ではなかったこと、父が自由主義であったために国家を絶対視していなかったこと、自分たちに理不尽な命令を下す上官たちへの不信なども投降の理由として分析されている。
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近衛は岡田を帰したあと、彼にしては珍らしく、どのようにこの事態をのりきるかを考え、木戸あてに自らの考えをまとめ提出した。その前文には、「敗戦必至なりとは陸海軍当局の斉しく到達せる結論にして、只今日はこれを公言する勇気なしという現状なり」とあった。東條はこうした動きに拘らず、表面的には意気軒昂を装った。
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赤軍はこれまで限られた装備だった無線を多くの戦車が装備し、圧倒的な空軍力・赤軍伝統の砲の強さを含め、無尽蔵とも思える歩兵を備え、制限はあるものの権限を与えられた指揮権などの戦術の向上とともにレンドリースによる圧倒的な輸送力に裏付けされた補給を得ていた。その上に、兵力差を越えて犠牲をいとわない赤軍の電撃戦の前に、拠点確保・撤退禁止を命じられたナチス・ドイツ軍は、各地で包囲殲滅され、驚くほどの短期間に開戦来の地を追われ、独ソ戦の帰趨を決する大敗を喫し、敗戦必至の烙印を押すのである。
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城域は1キロメートルを超えるほどの長大なものであり、あたかも高天神城と甲斐国との経路を遮る巨大な壁のように見える。高天神城に立てこもっていた横田尹松は、この火ヶ峰砦の完成を目にして敗戦必至を悟り、高天神城を見捨てるよう勝頼に書状を出したという。築城後は、徳川家康に任じられた大須賀康高がこの砦を管轄し、高天神城への兵糧や弾薬の補給を遮断した。
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その中で特筆すべきものとしては、2月14日に行われた近衛元首相の上奏がある。近衛は「敗戦必至である」として、「和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだ」と提案している。昭和天皇は「近衛の言う通りの人事ができない」ことを指摘しており、近衛の策は実行されなかった。
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