御中
全て
名詞
68 の例文
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そこで編集者と直接面談してその場で少しでも原稿を読みやすいようにし、出版の熱意を伝える。事前連絡もせず、直接出版社に「編集部御中」として送りつける執筆者もいるが、この方法では出版は難しい。多くの場合、連絡もせず原稿も返却しない。
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これは白石一流の思想では解釈し難き問題である。また神代の巻の物語を、事実の伝説化せられたものとして、すべてが解釈せられるかどうか、例えば葦芽の如く萌えあがるものによって神が生まれたとあり、最初に天の御中主の神の如きがあるというようなことは、如何なる事実の伝説化せられたものであるか、というと、それは何とも説かれていない。しかしそれだけは事実の基礎がないというのならば、何故に他の物語に限って事実があるというのか。
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出典は示されていないが、宋史日本伝の記事から、東大寺の僧侶・奝然が宋の太宗に献上した『王年代紀』を参照したと考えられている。以上のとおり天御中主から彥瀲までの32世、天皇は神武天皇以下皇極天皇まで列挙されている。またその後には光孝天皇までが詳述されている。
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例えば、荒身魂は肉体、和身魂は意識、直霊は最高意識ととらえ、人間は最高意識が受肉した存在であるから、すべての人間はその意味で「現人神」であると主張した。また、天御中主を中心力、高御産霊を遠心力、神御産霊を求心力ととらえ、この三者のはたらきによって原宇宙が生成されたと説いた。川面は、古神道の神は、創造神ではなく、生成神であると考えている。
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一、霊系の主宰神は厳の御魂に坐します国常立神、体系の主宰神は瑞の御魂と坐します豊国主尊と申し奉る。一、以上の三神は其御活動に由りて種々の名義あれども、三位一体にして天之御中主の大神御一柱に帰着するのである。一、故に独一真神と称へ奉り、一神即ち多神にして多神即ち一神である。
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大変なことだと思うが、ドイツ人が持てあましているということは聞いたことがない。それはとにかく「あて名のなんとか係には御中を書き加えろ」ぐらいは、理屈ぬきで教えておくべきだろう。かなり前だが、ある人から聞いた話。
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他のタイトルが利用可能でない限り、受取人の名前で使用される標準的なタイトルは様である。会社宛ての手紙には「御中」を会社名の後につける。また、株式会社または有限会社などが社名組み込まれている場合、アドレスに言及することが重要と考えられている。
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広告をすると、申し込みのハガキがどっと集った。そのかたは御中とついてないのは独断で除き、残ったうちから抽選で入場券を発送した。
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戦国時代の谷貝については、古河公方・足利義氏の近臣だった芳春院周興らによる天正2年連署状に、「矢貝」は御中居領であり下総相馬氏に下されたと見える。なお、御中居は公方の身の回りの世話をする下級武士。このころの谷貝は、古河公方御料所の一部であったことが分かる。
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学問を好み、15歳で中書学生となった。侍御中散に任じられ、通直散騎侍郎の位を受けた。太子庶子・給事黄門侍郎に転じた。
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「あて名で呼び捨てにされて、気になりませんか」 「気にしていたら、仕事になりませんよ」 子供雑誌の編集部に行ってみると、その事情がよくわかる。大量の投書はどれも「様」や「御中」なしである。
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大学を卒業して商社マンとして勤める一方、この時期に宗教家としての「霊的覚醒」が始まったとされる。卒業を控えた1981年3月23日に仏教僧の日興・日蓮との間で「霊道」を開き、その後に空海、イエス・キリスト、天之御中主と通信した内容を集めて幸福の科学の初期の霊言集が完成したという。
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御山支配役は禄高数石程度の郷士身分である。林右衛門義明は職務に励んだ結果、御留守居御中小姓列に進んだ。細川氏の肥後入国以来小代焼の生産は一子相伝であり、牝小路氏・葛城氏の両本家当主による質を重んじた少量生産、瓶焼窯一窯のみであった。
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仙丈岳の頂上に着いたのは、午後三時頃であったろう。ここで殿下を御中に一同記念の撮影をして、頂戴した羊羹の一切れに舌鼓を打ち、二個のカールとカール状の窪地に四方から抉り取られた細い国境の山稜を、尚も北東に沿うて進み、二時間半の後には今宵の野営地と定められた北沢に下ることを得た。今朝野呂川を下って先着した人夫は、不潔な北沢の小屋跡より、更に上流の広い沙地に天幕を張って、野営の支度を整えていた。
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長野県諏訪郡平野村西堀の裕福な地主の家に生まれる。武井家は諏訪藩で御中小姓を代々務め、藩の御用の傍ら、私塾を開き地域の子ども達の教育に熱心に取り組んだ。武雄の父慶一郎も平野村長を務めるなど地域に貢献した人物であった。
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さるにこのとき証文に、内借二万五千両、藩御中と書きたるは、三百年の君臣の、南部のならいぞ是非もなき。
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古賀は、次第に、田代について行けない自分を感じ始めていたが、四日目になって、社のレターボックスに、部厚い封書が入っているのを見つけた。重さが超過しているのか、三十円の切手が貼られたその封書の表には「世界経済旬報社御中」の文字があった。裏を返したが、差出人の名前はない。
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