式部大輔

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  • そして参議となってからも式部大輔を兼帯することは差し支えなかった。
  • 文永8年に従二位・式部大輔に叙任され、翌文永9年に豊前権守となる。
  • 建治元年に式部大輔を辞退した後は15年間官職に就くことはなかった。
  • 小田氏治との手這坂の戦いで活躍して、式部大輔の名乗りを許される。
  • 文章博士・東宮学士を経て、後一条天皇の侍読を務め式部大輔に至った。
  • 四十七歳で式部大輔、翌年参議、五十三歳で権中納言にすすんでいる。 久保田正文『百人一首の世界』より引用
  • 南隣に榊原式部大輔の下屋敷があるが、これも鬱蒼うつそうたる樹木に囲まれている。 平岩弓枝『御宿かわせみ 06 狐の嫁入り』より引用
  • 特に自らの儒学の師である式部大輔菅原公時死去の記事は天皇の追慕の念が強く反映されているという。
  • 憲平親王の東宮学士を務め、大学頭を経て979年式部大輔に至った。
  • 大内記・文章博士・大学頭を経て、保安3年に式部大輔となる。
  • 母である大森式部大輔の妻が難波田憲重の娘であったことで難波田家を相続した。
  • 諏訪頼重に独断は禁じられていたのに、名越式部大輔はそれを敢てしたのであった。 新田次郎『新田義貞(下)』より引用
  • 式部大輔を務めたことや、若いころの和気貞臣に老荘を教授した話が伝わるなど、学者であったとみられる。
  • 式部大輔を経て、天慶2年参議に任ぜられて公卿に列した。
  • 東宮学士や文章博士を経て、正四位下・式部大輔に至る。
  • 廉子のいとこに、阿野ノ式部大輔公知だゆうきんともという色の小じろい男がいる。 吉川英治『私本太平記』より引用
  • この場合、諸将をまとめるためには、やはり名門出の名越式部大輔しか居なかった。 新田次郎『新田義貞(下)』より引用
  • 大同5年9月に発生した薬子の変にも関わっていないが、変後に式部大輔の官職を退いている。
  • 名越式部大輔は、鎌倉を出て三里ほど行ったところで、全軍を小休止させ、大将たちを集めて言い渡した。 新田次郎『新田義貞(下)』より引用
  • 鎌倉にはこの頼重がとどまることにし、箱根へは名越式部大輔殿が総大将として、早々に出発されるように。 新田次郎『新田義貞(下)』より引用
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式部大輔 の使われ方