庫裏
全て
名詞
563 の例文
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写し終ると、再び大西坊へ忍び入って住持の居間をのぞいてみたが、まだ風呂から戻って来ていない。庫裏の方で住持が誰かと声高に話している声がきこえているだけである。いそいで、手紙をもとの場所へ置いて、文鎮でおさえてその足で、夕方のぼって来た坂道をすたすたと降った。
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老僧か、小坊主か納所かあるいは門番が凝性で大方日に三度くらい掃くのだろう。松を左右に見て半町ほど行くとつき当りが本堂で、その右が庫裏である。本堂の正面にも金泥の額が懸って、鳥の糞か、紙を噛んで叩きつけたのか点々と筆者の神聖を汚がしている。
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安土桃山時代、天川良尭が再興を志し、慶長元年に高山素玄寺2世格応門越を勧請開山として素玄寺末寺の曹洞宗寺院として中興を果たした。本堂、庫裏及び山門は享保年間に再建されたものが現在まで残っている。本堂のほかに地蔵堂、薬師堂及び観音堂がある。
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この用水は江戸時代から明治末年まで使われていた。現在一部が復元され、本堂と庫裏の間を流れる様子が再現されている。
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thumb|方丈前庭、勅使門 thumb|開山堂 thumb|霊屋 創建当時存在した仏殿は焼失後再建されておらず、方丈が中心的な堂宇となっている。方丈の西に庫裏、北に書院があるが、いずれも創建当時のものではない。境内東側には偃月池・臥龍池という2つの池をもつ庭園が広がり、開山堂、霊屋、茶室などが建つ。
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また稲荷神や地蔵菩薩などが祀られている。聖宝の廟塔とされる宝塔は庫裏の裏より百貝岳に至る山道の途中にある。なお、庫裏の裏には宝塔のレプリカがある。
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故障を発見したのは、案内人の老人である。老人が執事寮でその報告をするのを、たまたま庫裏にいて私は聴いた。私は天の励ましの声を聴いたと思った。
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南禅寺大方丈の庭園は瓦を頂いた築地塀によつて仕切られてゐるが、本来はその向うに借景として南禅寺山が見えた筈だ。今では庫裏の瓦屋根が山を隠して、庭はそれだけの空間として区切られてゐる。借景といふことは勿論作庭上の重要な要素に違ひないが、私はこの南禅寺の庭のやうな、限られた空間の中に永遠が凝縮されてゐる感じを、更に好む。
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表門より入って左に庫裏があり、中門の先には玄関・客殿などがある。中門脇・本堂右手などに、石の古仏がいくつか見られる。
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そこから一分もかからずに常隆寺の境内に入った。小学校の運動場ほどの広場の向こうに、本堂と、その右に庫裏がある。本堂はもちろんだが、庫裏も相当に古い建物だ。
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この寺の名物に紫蘇飯があり、紀州藩主が絶賛したという。本堂・庫裏・三重塔・弁天堂などの堂于は江戸時代後期に再建された。かつては近隣の小学生の遠足や行楽に訪れる人々も多かったが、現在は管理する者もなく荒廃してしまっており、地元の女性グループ「アグロマリン三重・ゆかり会」が復興を目指している。
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要領だけ言っていつも奥へ這入ることが多かった。そのころから十年前に寺の庫裏から失火して、屋根へ火がぬけたことがあった。まだ宵のくちであったから、火はすぐに揉み消すことが出来た。
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庫裏を出た蔭山は、奥書院の礼の間までやって来たところだった。奥書院は頭を北に向けたT字形で、その右袖が、正面出入り口方向に近い礼の間となっている。
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明治になると藩の庇護がなくなり、経営が困難となって規模が縮小され、本堂は甘木の光照寺へ、山門は弥永の浄光寺に移された。現在の本堂、庫裏、山門は昭和46年以降に檀信徒によって再建された。境内墓所には「日本最後の仇討ち」で有名になった臼井六郎や剣術師藤田仲智己などの墓所がある。
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この後、平安時代の弘仁年間になり、弘法大師がこの地を巡錫した際に伽藍及び僧房の建立等の大整備を行い、真言密教の大霊場の一つにし、金剛七坊の一つとして栄えたという。この際には12塔の塔頭を設けたと伝承されているが、現在は本堂と庫裏のみが残る。更に、時代は下り鎌倉時代の末期、元亨年間には後醍醐天皇の勅願所に指定され、紀伊国の名手に田地25町歩を下賜されたと伝わっている。
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文久3年2月1日には、長府藩主の居城となったが、明治に入って知藩事が長府に再移住したのち、暫くは豊浦藩庁とされた後、明治6年に解体された。解体の際、建材の一部は移築され、長府の覚苑寺の庫裏・客殿となった。なお、本丸の石垣は良好な状態で現存していた。
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江戸時代、寛文5年に照運により再興された。この時に金堂・庫裏・大日堂・鐘楼・羅漢堂などが建立されている。寛文6年には唐招提寺の末寺となった。
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