岡崎城主

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  • 文明年間、岡崎城主西郷頼嗣は松平信光と争って敗れたので、岡崎城を信光に譲り自身は自領の大草郷に隠退した。
  • 文正年中岡崎旧領主の西郷氏と講和するとともに、西郷頼嗣の娘を妻として、岡崎城主となった。
  • 同年、三河国岡崎城主田中吉政が、石田三成を捕らえた功により筑後一国32万5千石を与えられ柳川城に入った。
  • そうして、この元康を暗殺し、これに代わって岡崎城主となったのは、願人坊主がんにんぼうずあがりの世良田せらた二郎三郎元信である。 桑田忠親『戦国史疑』より引用
  • 牛久保城主・牧野氏が駿河・遠江の戦国大名・今川氏を見限り、岡崎城主の徳川家康に臣従することを、ためらっていた時期に、家康と内通して、内部からの切り崩しをおこなったと推察される。
  • 初点から、家康をば、北条早雲なみの流れ者と仮定することによって、三河の豪族松平宗家の系図や歴代の事蹟を否定し、岡崎城主松平広忠の嫡男元信の存在を抹殺しているのだ。 桑田忠親『戦国史疑』より引用
  • 岡崎城主の松平広忠を屈服させることによって三河を掌中に収め、さらに尾張に攻め入り、清洲城主織田信長を一蹴しようとして、永禄三年の五月、二万五千の大軍をひきい、広忠の嗣子松平元康を先鋒として、尾張に侵入したが、信長の奇襲作戦により、桶狭間おけはざまに至る途中の田楽狭間でんがくはざまで敗死した。 桑田忠親『戦国史疑』より引用
  • 現地を視察した広島大大学院教授の三浦正幸は、大林寺郭堀跡のこの石垣は、豊臣秀吉の命令で、1590年に岡崎城主となった田中吉政が築いたと推定している。
  • 初めは父とともに駿河国の今川氏に属したが、今川氏は当主今川氏輝が幼弱であったため、その間隙を衝いて貞成は今橋牧野家の牧野信成とともに自立をはかるが、享禄2年・天文元年と西三河岡崎城主の松平清康が東三河に進攻するとこれに服した。
  • 享禄2年、三河国岡崎城主・松平清康が、織田信秀の属将・荒川頼宗の守備する岩崎城を尾張国攻略の足がかりとして兵7000を率い攻め落とした。
  • そのうちに、三河国の豪族松平の宗家そうけである岡崎城主松平元康と駿河の今川家との関係を洞察し、永禄三年の四月、十九歳のとき、同志を呼び集め、駿府の今川やかたに人質になっていた元康の幼児竹千代を奪い取り、遠江に遁走した。 桑田忠親『戦国史疑』より引用
  • 水野忠政は緒川から刈谷に本拠地を移し、徳川家康生母於大の方は刈谷城主の娘として、同じく今川氏傘下の岡崎城主松平広忠のもとに嫁いだ。
  • だから、この願人坊主あがりの世良田元信、改名して松平元康こそ、徳川家康となるべき人物であって、死んだ三河国岡崎城主の松平元康と、駿府から尾張に連れ去った元康の長男竹千代、即ち、後の岡崎三郎信康は、共に全くの別人だったのである。 桑田忠親『戦国史疑』より引用
  • 弘治3年、今川義元の養女となり、今川家の人質として駿府にいた三河岡崎城主の松平元信と結婚する。
  • 森山崩れとは、天文4年12月5日早朝に、三河国岡崎城主・松平清康が、尾張国春日井郡森山の陣中において、家臣の阿部正豊に暗殺された事件をいう。
  • 村岡素一郎の奇説によれば、願人坊主浄慶の世良田二郎三郎元信が、三河の豪族松平広忠の嫡男元康を暗殺して、それに代わって岡崎城主となり、松平家臣を納得なつとく臣従させ、松平元康と改名し、死んだ元康の後室築山殿を形式上の正妻として、世間をたぶらかし、尾張の織田信長と清洲きよす同盟を結んだという。 桑田忠親『戦国史疑』より引用