岡崎城主
58 の例文
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明治初期、多喜浜に3軒の塩田を有していた藤田家の跡地を当家から新居浜市に寄贈され改装し歴史公園として2014年4月26日に開設した。藤田家の先祖が郷山の岡崎城主であったことから岡城館の名称になった。
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家康の天下取りの野心は、岡崎城主であった時からのものである。爾来、三十六年。
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現在は岡崎市美術博物館に保管され、レプリカが社務所と岡崎市立矢作北小学校に置かれている。その後田中吉政が岡崎城主になると、田中は城の用材のため建物や石垣を壊した。慶長8年に伊奈忠次黒印状によって長瀬村内で60石が与えられ、慶安元年2月24日に徳川家光の朱印状を受けた。
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冷酷な父の姓江田を取らずに、同じ新田の支族である世良田を称したのであった。世良田元信は、岡崎城主の松平元康に協力し、各所で織田勢と戦っていた。ところが、たまたま、元康が家臣の阿部弥七郎に刺し殺されたため、元信は、三河に戻り、ひそかに元康の遺骸を荼毘に付し、さらに敵がたをあざむく必要から、松平元康その人になりすました。
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奥州仕置においては本願寺の坊官・下間頼廉らと共に奥州一揆の中核をなす浄土真宗寺院と緊密に連絡を取り、奥州の争乱が畿内に波及しないよう努めた。父・吉政が岡崎城主の頃、西尾城を治めたという話もある。慶長5年、関ヶ原の戦いでは父と共に徳川方に参陣し、父・吉政は功績によって筑後国主となる。
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麓には岡崎城主藤田山城守の祈願所であった薬師堂があり中腹には鉾前神社がある。神社の向って右から上がると石鎚大神の石碑のある壇があり、そこから階段状に二の丸・三の丸となっていたと思われる壇が数壇あり、山頂に本丸だったと思われる壇は平らで十分な広さがあり、木々の間から新居浜市街が望める。
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ただ、明確にされているわけではなく、次の説がよくいわれている。岡崎の城下町を整備した岡崎城主田中吉政が、町家を建築する材木を伐り出した場所から由来するという説がある。また城下町整備以前の岡崎中心部は幽邃とした密林で、材木町の地にあったという天神山の材木をすべて伐採して、まずこの場所に積んで置いたため「木町」と称したという説もある。
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母は関口親永の娘で今川義元の姪・築山殿。また、後に松平宗家の居城の岡崎城主を務めたため、祖父・松平広忠同様に岡崎 三郎と名乗った。現在では一般的には松平信康と表記されるが、父の家康は信康の元服以前の永禄9年に既に徳川に改姓しているため、生前は徳川信康と名乗っていたということになる。
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金田氏は祖父の代まで上総国の大名千葉氏に属していたが、祖父・正興の代に三河国に移って松平氏に仕えた。三河岡崎城主・松平広忠に仕え、その嫡子であった竹千代の側近に附属させられた。天文16年松平氏が今川義元に属するに際して竹千代を駿府へ人質に送る事になった際、これに従う。
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戦国時代には、徳川家康家臣の内藤家長居城藤川城が築かれた。もともとは関山神社奥宮などがある北の明神山山麓に集落があったが、1590年に豊臣秀吉家臣だった岡崎城主田中吉政により南に移転された。江戸時代は主に幕府領や称名寺領などであった。
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元亀元年に正式に岡崎城主となる。天正元年に初陣する。
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岡崎城下の城下町として栄えた。天正19年に、当時の岡崎城主田中吉政が城西の沼地であった当地を埋め立てたと伝えられており、沼田に由来するとしている。交通の大動脈である国道1号が当町を東西に貫いているが、1980年頃は大型トラックによる騒音、振動や健康被害が深刻になった。
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元信というのは、今川義元の元の一字を貰ったもので、明らかに、義元への従属関係を示している。それを元康と改めたのは、祖父松平清康の英名を慕い、康の一字を継いだものらしく、三河岡崎城主の若殿としての、一歩前進と見られなくもない。これに比べて、願人坊主浄慶が勝手に改名した世良田二郎三郎元信などという姓名は、当時の確実な文献によって実証することは不可能である。
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天正18年に徳川家康が関東に移封されると、本国の留守居を任されていた酒井重忠は武蔵川越に1万石の所領を与えられた。新たに三河国岡崎城主となった田中吉政によって破却されたが、慶長6年に本多康重が城主となると再建された。慶長8年9月11日付で家康から朱印状を拝領する。
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一方、柴は『武家聞伝記』に天文17年に斎藤利政が織田大和守家と松平広忠に働きかけて対信秀の挙兵をさせたと記されており、道三と結んで挙兵した広忠が義元に接近した結果、小豆坂の戦いが始まったとしている。いずれにしても、村岡論文によって江戸時代以来疑われることがなかった「天文6年に岡崎城主になってのち同18年に没するまでの間に今川義元の配下になることはあっても、この間ずっと岡崎城主としての地位は保ち続けた」とされてきた松平広忠像が覆されることになり、その根本的な見直しを迫られることになった。「武徳大成記」は於大との婚姻は天文10年としている。
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だから、この願人坊主あがりの世良田元信、改名して松平元康こそ、徳川家康となるべき人物であって、死んだ三河国岡崎城主の松平元康と、駿府から尾張に連れ去った元康の長男竹千代、即ち、後の岡崎三郎信康は、共に全くの別人だったのである。世良田元信を松平元康と改名した人物は、いまはこの世になき岡崎城主松平元康の正妻築山殿を形式上の妻とした。築山殿こそ、亡夫松平元康暗殺の秘密の鍵を握っている唯一の女性だった。
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「そのときは岡崎城主にお取り立てのほどをお願い申し上げます」 甚左衛門は当り前だという顔で云った。勝頼は危うく吹き出すところであった。
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