岡崎城主

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  • 世良田元信は、岡崎城主の松平元康に協力し、各所で織田勢と戦っていた。 桑田忠親『戦国史疑』より引用
  • 当初、岡崎市教育委員会は、江戸時代の城絵図や文献などから、この石垣は1601年に岡崎城主となった本多康重が主君家康の命令で整備した堀の一部であるとみていた。
  • 岡崎城主田中吉政が城下町を造る際、既存の寺院の移転や寺町の造成を試みたが成立しなかった。
  • 岡崎の城下町を整備した岡崎城主田中吉政が、町家を建築する材木を伐り出した場所から由来するという説がある。
  • この時、信光は五男・光重に頼嗣の娘を娶らせ岡崎城主として光重を岡崎に分出させた。
  • ところが、佐久間信盛は、血の気が多い若大将と小栗大六が云った瞬間に、その若大将こそ、家康の長男、岡崎城主、徳川信康だと思いこんでしまったのである。 新田次郎『武田勝頼(一)』より引用
  • 三河奥郡おくごおり二十余郷の代官大賀弥四郎は小谷甚左衛門の話を聞くと、もはや岡崎城主となることは既成の事実のように思いこんで、妻のおたけに云った。 新田次郎『武田勝頼(一)』より引用
  • 永禄3年桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、西三河の岡崎城主徳川家康は衰えがみえた今川氏から独立し、永禄4年より、今川氏の勢力圏であった東三河に進攻した。
  • 元亀元年に正式に岡崎城主となる。
  • また、後に松平宗家の居城の岡崎城主を務めたため、祖父広忠同様に岡崎三郎と名乗った。
  • しかし、それより前の享禄2年、三河国岡崎城主・松平清康と、織田信秀の属将・荒川頼宗との間で岩崎の戦いが岩崎城にて起こっていることが判明している。
  • 小豆坂の最初の激突の後、織田氏の尾張・三河国境地帯に対する影響力は高まり、天文13年には三河国碧海郡の刈谷城を中心に国境地帯に勢力を持つ国人の水野信元が、岡崎城主・松平広忠の妻・於大の方の兄でありながら松平氏と絶縁し、今川氏を離反して織田氏に従った。
  • それを元康と改めたのは、祖父松平清康の英名を慕い、やすの一字を継いだものらしく、三河岡崎城主の若殿としての、一歩前進と見られなくもない。 桑田忠親『戦国史疑』より引用
  • 世良田元信を松平元康と改名した人物は、いまはこの世になき岡崎城主松平元康の正妻築山殿つきやまどのを形式上の妻とした。 桑田忠親『戦国史疑』より引用
  • 天正18年の徳川家康の関東移封後、吉田城主・池田輝政の家臣である日置忠俊が荻村・深溝村を支配し、残りの村々は岡崎城主の田中吉政が支配していたが、関ヶ原の戦い後に関東に所領を持っていた家康の家臣が再び三河へ転封した。
  • 岡崎城主として西三河の平野部を支配していた松平氏は、松平清康の代に三河全域をほぼ平定したが、天文4年の森山崩れによって清康が不慮の死を遂げてから一族間の内紛が起こり、動揺していた。
  • また5月に岡崎城主松平清康が今橋城の牧野三成を急襲降伏させたが、清康の迅速な行動に成勝は対応が間に合わなかったという。
  • 織田信秀の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城主松平広忠、形原城主松平家広などに娘を嫁がせて、領土の保全を図った。
  • 松平宗家8代で徳川家康の父である松平広忠が、天文4年一族で桜井松平家初代の松平信定によって岡崎城を追われた際、領地を捨てて広忠と伊勢に逃れ、天文6年広忠が再び岡崎城主として復帰するまで忠勤に励んだ。
  • 材木町の通り沿いに鍛冶職人が大勢集住したのは、岡崎城主田中吉政や、その次の本多康重が城下町づくりの一環として材木町の東にあったとされる久後切という地域に鍛冶職人を集住させたことにはじまる。
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