山本博文

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  • 最近では山本博文らにより、他の在野の江戸学者と同様に再評価されている。
  • 山本博文は精神の重圧が招いた不安神経症ではないかと推測している。
  • 山本博文は忠棟の政治的立場が義弘に近く、義久の忠真に対する対応が迅速であった事を見て忠恒と義久が殺害を計画したという説を立てている。
  • また山本博文は後に三成の盟友となる大谷吉継が家康側として書かれているのは後世の偽作家には書けない表現であるとした上で、当事者しか知りえない事実が書かれているとして、原本か写しが存在したと見ている。
  • 山本博文氏の著書によれば、大名家と幕府とのあいだにたって、幕府内の情報を知らせたり幕府幹部への働きかけを代行したりして、さまざまの便宜をはかってくれるのが幕臣である。 白石良夫『最後の江戸留守居役』より引用
  • 山本博文氏が『江戸お留守居役の日記』で紹介し、あわせて「留守居」というものを読書界に知らしめた。 白石良夫『最後の江戸留守居役』より引用
  • 山本博文は、忠恒の上洛を義久やその家臣に認めさせる代償として、家中から嫌悪されていた伊集院家を粛清したのではないかと推測している。
  • この大名留守居が幕藩体制下において果たした制度的ないし政治的役割に関しては、近年ようやく、服藤弘司・笠谷和比古・山本博文ら諸氏によって解明されるところとなった。 白石良夫『最後の江戸留守居役』より引用
  • 山本博文著『江戸お留守居役の日記』等によると毛利家では長門国の萩城を残して岩国城などを破却し幕府に報告したが幕府の反応は「毛利家は周防国、長門国の二国だから周防国の岩国城まで破却する必要はなかった筈」というものであった。
  • 山本博文によって「豊臣政権の大名統制機構」として位置づけられた「取次」であるが、誰がどの大名の「取次」となるかを決め、任命したのは、秀吉であった。
  • こうした「取次」をめぐる重層的で複雑な関係は、山本博文によれば、いまだ戦時色が強く、諸大名の旗幟の定まらない段階における「手筋としての取次」=「御取次之筋目」が複数存在していることの現れであった。
  • 中央公論新社で『鳶魚江戸学 座談集』や、山本博文『江戸を楽しむ 三田村鳶魚の世界』、『鳶魚で江戸を読む』がある。