山崎重暉
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名詞
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この頃の「伊24」の属す第三潜水隊は第一潜水戦隊司令官・山崎重暉の指揮下にあり、第二監視部隊として付近の監視を行い、10月初旬に整備を受けた後、再び散開線に就き、28日には戦艦を雷撃したが命中はしていない。第一潜水戦隊の僚艦「伊19」、「伊25」、「伊26」は別の散開線を敷いていた。
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この時、潜水艦の戦時行動能力を検討するため、臨時部隊が編成された。第二潜水戦隊司令官山崎重暉大佐を指揮官とし、第7潜水隊、第12潜水隊と潜水母艦長鯨で編成された部隊は、南洋諸島配備の第四艦隊を敵艦隊に想定した。横須賀隊は2月23日内地出撃、呉隊は3月10日呉を出撃、トラック諸島近海で合同する。
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潜水学校長名で連合艦隊司令長官に提出された「潜水艦戦果発揚対策」は、川島が主筆者である。当時の潜水学校校長は山崎重暉で、川島は同期生と卒業の挨拶に山崎家を訪問し、山崎は前途の厳しさを予測しつつ川島らの壮途を祝った。川島は第六艦隊に所属する「呂36潜水艦」艦長に補され、マーシャル方面での偵察などを行っている。
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しかし、散開線外を単独行動中の伊175潜水艦が護衛空母「リスカム・ベイ」を撃沈しただけで、逆に潜水艦6隻を失った。なお、ギルバート諸島の戦いにおける戦訓をふまえ、1944年2月、山崎重暉海軍潜水学校長は、厳格な指揮統制による従来の散開線用法は現状に適合していないなどと批判する意見書を配布したが、上級司令部からは統帥を乱す行為であるとして受け入れられなかった。
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戦前、ハワイを訪れたさいごの日本の軍艦は、昭和十四年十月にホノルルヘ入港した練習艦「八雲」「磐手」であったことは前にのべたが、このとき日本海軍には珍しい〝不祥事〟がおこった。「八雲」の艦長は山崎重暉大佐であったが、ヒロに停泊中、同艦乗組の三等水兵佐藤萬里夫が脱走して行くえ不明となった。佐藤は南米のペルーで生まれたが、父の本籍は、群馬県利根郡水上村にあって、就学のため帰国中に徴兵検査をうけ、海軍にはいったものだ。
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