小豆坂の戦い
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駿河国において太原雪斎らと共に家中では重鎮であった。天文17年の小豆坂の戦いでは、一族の朝比奈泰能や子・信置らと共に参戦。永禄2年には関口親永と共に松平元康の後見人も務めた。
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青山氏は、上野国の出身で、忠門の時に近江国から三河国へ移り、額田郡百々村を領して松平広忠に仕えたという。第二次小豆坂の戦いにも参戦した。広忠死後は一時、今川義元の麾下に入るが、永禄3年の桶狭間の戦いでは広忠の子・元康の寄騎となり、義元死後は元康に帰属する。
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また『信長公記』の記述から、織田信時は同母弟でないかと見られている。天文17年3月に起こった第二次小豆坂の戦いでは先鋒を務める。しかし小豆坂を登る時に今川先鋒の松平勢と鉢合わせしてしまい、応戦するも劣勢に立たされたために信秀本隊が陣を張る盗木の付近までひとまず退き、本隊と合流して松平勢を退ける。
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つまり、この説に基づくと、当時の松平氏は広忠に従って織田氏に降った家臣とそれを拒否して今川氏を頼った家臣に割れていたことになる。ただ、村岡の岡崎城と松平広忠の織田方へ降伏した説を支持する研究者でも小豆坂の戦い段階では松平広忠が既に今川方に復帰していたとする見解もある。例えば、柴裕之は『武家聞伝記』に天文17年に斎藤利政の説得によって織田大和守と松平広忠が挙兵したことが記されており、この時に広忠が今川方に接近した結果として小豆坂の戦いが起きたとしている。
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織田信長が「大うつけ」と呼ばれていた若殿時代から、戦国大名に成長し、やがては天下人と目される大大名に成長するまでを描く。天文17年に起こった、信長の父・織田信秀と今川義元との戦いである第二次小豆坂の戦いからストーリーが始まる。父より織田家の家督を継ぎ、義父の斎藤道三をはじめとした人々との出会いを経て戦国大名として成長し、天下布武への道をひた走り、天正7年の安土城完成直後で終わる。
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信房の前半生は不明であるが、1542年の小豆坂の戦いには参陣しており、これ以前から織田信秀に仕えていたものと考えられる。小豆坂の戦いでは戦闘中に負傷しつつも奮戦した。信秀死後は嫡男信長に仕えており、1556年に信長が弟信勝と戦った稲生の戦いでは柴田勝家によって佐々孫介が討たれ、危機に陥った際に森可成とともに奮戦し、勝利に導いている。
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額田郡羽根村を前身とする。地内の小豆坂は、二度の小豆坂の戦いの舞台となった。戦国時代、もしくはそれ以前と思われる領主の名が記された古文書がある。
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早くから織田信秀に仕えて信頼を得ており、天文4年に主君・信秀が嫡男・信長を那古野城主とした際には林秀貞、平手政秀、青山信昌と並んで「おとな衆」として補佐役に抜擢されている。以後も信秀の戦いに参陣しており、特に天文11年に発生した小豆坂の戦いでは、手柄を上げたと言う。天文20年の信秀没後は信長にも仕えたようである。
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信房の前半生は不明であるが、1542年の小豆坂の戦いには参陣しており、これ以前から織田信秀に仕えていたものと考えられる。小豆坂の戦いでは戦闘中に負傷しつつも奮戦した。
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水野信元に属し、尾張緒川に住す、と「寛永諸家系図伝」にあるが、元来は三河の出身という。若年の頃、信元の下を去って織田信秀に属し、天文17年の第二次小豆坂の戦いで高名という。その後、再び信元に属し、刈屋の戦い、石瀬の戦い、姉川の戦い、長島攻め、長篠の戦いなどに従軍。
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大きな流れは史実通りだが、出来事の時期変更や省略、改変、創作もある。物語は、小豆坂の戦いに敗れて矢傷を負った織田信秀が、三河から尾張に撤退する場面からシーンから始まる。当時、信秀の嫡男・信長は那古野城主であったが、犬千代や勝三郎らを引き連れて領内を遊び歩いていた。
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天文8年8月、織田信秀に仕える。同11年三河国小豆坂の戦いで弟・孫介と共に功名し、小豆坂七本槍に数えられる。永禄3年、桶狭間の戦いの序盤に、織田信長が善照寺砦に到着したのを見て、千秋季忠と共に今川義元軍に攻撃をかけ討死した。
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また更に、天文13年にも安城城は落城せず、天文16年に落城したという説もある。こちらの説では第一次小豆坂の戦いに加えて、後述する天文14年に生起したとされる安城合戦との整合性も問われることになる。いずれにせよ、安城城落城後、一門衆である松平清定や松平重弘、佐々木松平家の松平忠倫、重臣の酒井忠尚などが織田氏に下るなど、矢作川西岸の碧海郡に城を持っていた松平氏の家臣は、徐々に織田氏の勢力下に入ることになり、やがては矢作川東岸にも織田氏の影響がおよぶなど岡崎城へ肉薄することになる。
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なお、織田信秀と今川義元という敵対していた両者を結びつけて広忠攻めを行わせたのは広忠と対立した松平信孝や阿部定吉との権力争いに敗れた酒井忠尚らであったとみられ、更に牧野氏もこの動きに加わったとされる。最終的には広忠は今川方の岡崎城主として死去したとみられるが、今川方への復帰の時期として村岡は同年9月28日の渡河原の合戦以前と小豆坂の戦いにおける今川氏の勝利後の2つの可能性があるとした上で、小豆坂の戦いでの広忠の行動を不審視して後者の可能性が高いとしている。一方、柴は『武家聞伝記』に天文17年に斎藤利政が織田大和守家と松平広忠に働きかけて対信秀の挙兵をさせたと記されており、道三と結んで挙兵した広忠が義元に接近した結果、小豆坂の戦いが始まったとしている。
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この説は、第一次安城合戦の翌年である天文10年に水野氏と松平氏が和議を結び、水野忠政が松平広忠に於大の方を嫁がせていること、そして天文12年に水野忠政が死去すると、家督を継いだ水野信元が織田氏との協調姿勢を示して、翌天文13年に松平氏との同盟を破棄したことなどの諸事象と整合性がある。しかし、その代わり天文11年に生起したとされる第一次小豆坂の戦いとの整合性が失われてしまう。また更に、天文13年にも安城城は落城せず、天文16年に落城したという説もある。
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八代広忠は父清康が死んだとき10歳の幼さで、三河と内紛状態となった松平一族を統御できず駿河の戦国大名今川氏の庇護下に入った。混乱の中重要拠点の安祥城は織田に奪われ、現在の岡崎市内で、織田対今川・松平連合軍の間で小豆坂の戦いが行われた。しかし、父清康時代の勢力を取り戻すには至らず、若くして死んだ。
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元信自身も遠江および三河の平定に大きく貢献した武将の1人。天文17年の第2次小豆坂の戦いでは筋馬鎧に猪の立物をつけて力戦し、今川軍の勝利に貢献した。天文18年の安祥城の戦いでも戦功を挙げる。
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