寛永十七年
17 の例文
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やがて、その年は暮れた。高俊が高次に会ったのは、年が明けて寛永十七年になって間もなくであった。
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すなわち、寛永十一年に行なわれたという、いわゆる「寛永御前試合」に彼が出場して、おなじく柔術の名人渋川伴五郎と試合したということになっている。しかし関口弥太郎は寛永十七年の生まれだから、これはあきらかに嘘である。ただ「祖公外記」という書に、こんなことがのっている。
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食がすすまず、床に臥せたお振りの方は大奥へ残り、おのうが一心に看病した。そのかいもなく、お振りの方が息を引きとったのは、翌寛永十七年八月二十八日であった。
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この手当で、懇親会をかねた息ぬきをやろうというのだ。島原遊廓は、寛永十七年に、それまでは六条にあったのを朱雀野の地へうつしたものだ。あたりは、田畑や雑木林が多くて、ちょうど壬生村と同じようなところなのだが、この一郭だけは、また別のものである。
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契沖の『百人一首改観抄』は、現在でも、百人一首を論ずるほどのひとは、かならず立ちもどってみなくてはならぬ研究書のひとつである。契沖は、江戸時代の国学者で、寛永十七年に生れ、死んだのは元禄十四年である。俗姓を下川と言い、十一歳のとき僧となった。
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上野刑場、と書かれていた。ここでは九十四人の信徒たちが寛永十七年に斬首された。キリシタンは一族郎党皆殺しという達しがあったそうで、たとえ赤ん坊でも許されなかった。
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養子の伊織が家老として禄仕している関係もあり、島原出兵の時には、小笠原家の軍監として、従軍もしている彼だった。その武蔵は、寛永十七年、齢五十七歳のとき、熊本へ来ている。細川忠利の招きによるといわれている。
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もっと深い心契の知己で、名目を客分として熊本に身を寄せていたのであった。彼が、その忠利に招聘されて熊本へ来た年の寛永十七年は、島原の乱後わずか三年目であった。孤高独行、故郷や肉親の縁も薄く、生涯を雲や水にまかせて流寓をかさねて来た武蔵も、もうその時は五十歳の半ばを過ぎ鬢髪には白い霜が見えていたであろう。
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が、藩の幹部から異議が出て、このことは沙汰止みとなった。さらにその後、寛永十七年、ついに武蔵は奉公口を得た。肥後の細川家、食禄はわずかに十七人扶持、現米三百石であった。
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津と上野にはそれぞれ城代家老が置かれ、伊勢と伊賀の領地を治めた。上野の城代家老は、始めは藤堂出雲守高清であったが、寛永十七年からは藤堂采女家が代々その職に着くこととなった。その上野が芭蕉の郷里である。
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綱宗には表立つた正室と云ふものがなかつた。その側にかしづいてゐた主な女は、亀千代を生んだ三沢初子と品との二人で、初子は寛永十七年生れで綱宗と同年、品は十六年生れで綱宗より一つ年上であつたらしい。二人の中で初子は家柄が好いのと後見があつたのとで、綱宗はそれを納れる時正式の婚礼をした。
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孤高独行、故郷や肉親の縁も薄く、生涯を雲や水にまかせて流寓をかさねて来た武蔵も、もうその時は五十歳の半ばを過ぎ鬢髪には白い霜が見えていたであろう。細川家へ落着いた寛永十七年から歿年の正保二年まで、彼の余生はその間わずか五、六年しかなかった。寔に短い期間であった。
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禁裏でも宮仕えの者の間でも、その期待があった。寛永十七年五月二十六日に江戸を発ったお福は、将軍家名代にふさわしい華麗な行列を組んでいた。今は誰も、春日局を陥れようとする者はいない。
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生漉きの薄い和紙を、そろりとめくり、黙読をする。本国伊賀 大江正永百地丹波守 八代孫 竜口城主七万石代々の領之 百地丹波守正西 改め新左衛門正西寛永十七年辰年 四月十八日死亡八十五歳 とはじまり、現在にいたるまでの系譜が、細かに記されていた。「これによりますと、大江正永はいつの時代の人物なのかは定かではありませんが、その八代のちの孫が、百地丹波守正西であるといえます」 清豪さんは、折目正しく切りだした。
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伊豆守が思案した万全の備えの方策は、みじんの狂いも生ぜずに、成功したのであった。落合小平次は、伊豆守が、駿府に隠匿された太閤遺金をさがしあてるべく、寛永十七年に、送り込んでおいた切れ者の旗本であった。
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河内の豪族にして、楠木氏に従いし忠臣に津熊三郎あり。その後、永禄二年交野郡五箇郷侍連名帳に「津田村津熊郎左衛門尉義秀、津熊源左衛門義安、藤坂村津熊玄蕃頭兼重、及び禰宜津熊中務敦弘」を挙げ、又寛永十七年三宮拝殿着座覚に「津田村津熊氏壹軒、藤坂村津熊氏壹軒」を載せたり。
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