富士権現
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鎌倉時代と推定される頃、富士太郎という豪族の館があったという。当時から山頂で富士権現を祭っていたと伝わり、山名の由来になったものと考えられている。江戸時代に久保田藩主の佐竹義宣が久保田城を築城する際、城下町建設のための土盛りに、富士山を削った土を用いた。
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途中、蕎麦屋で午飯を食べて、千駄谷八幡に着いた時には、厚ぼったい雲の切れまから薄く陽が射しはじめていた。境内には富士山をかたどった岩山があって、それを登って行くと山頂と思しきあたりに富士権現の祭祠がある。これが富士山頂とは、如何にも安直だが、それでも、かなりの高さがあって、そこから見渡すと、あたりの景色が一望の下に眺められた。
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坂戸山の山麓には長尾政景墓所と上杉景勝・直江兼続の生誕碑がある。また、山頂には天正14年、直江兼続の勧請によるとの伝承をもつ富士権現が祀られている。現在、坂戸山は登山道が整備され、多くのハイカーで賑わっている。
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もともと今川町には松の巨木があり、「富士松」と呼んでいた。永禄3年の桶狭間の戦いの際、今川勢がこの地を通った富士権現参詣の旅人を敵と見誤って殺した。住民が旅人を哀れに思って松を植えると、その松も成長して大木となり、「富士松」と呼ばれるようになった。
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これらの事柄から、永禄4年の信玄による富士権現造営が現在の北口本宮冨士浅間神社の元になるものであるとし、それ以前は諏訪社のみが鎮座していたとする。浅間明神の勧請元は、『甲斐国志』の下記の記載によれば、吉田口二合目の小室浅間神社である。
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弘法大師は弘仁13年、富士権現参詣の帰途で重原荘を訪れたとする伝承が残っている。当初は真言宗であり、現在の碧海郡泉田村に所在していた。
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千駄谷八幡の別当、瑞円寺の境内にはお富士さんと呼ばれている富士権現が祭ってあって、富士信仰の人々が、よく参詣に行くという。「津田屋の旦那も月に一度は参詣なすっていたようだから、お内儀さんもそれを思い出して、旦那の無事を祈りにお出でなすったものじゃありませんか」 路地を抜けて再び、尾張町の表通りへ出た。
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殊に北斎の『富嶽百景』三巻、『富嶽三十六景』四十六枚が、いかに江戸と、その市民の生活と、富士山とを結びつけているか、いかに世界的版画の名作として、日本をフジヤマの国として、高名ならしめたかは今更説くまでもなかろう。市民の生活といっても、当時交通不便にして、富士登山が容易でなかったために、旧暦の六月朔日には、市中と郊外にある富士山の形に擬えた小富士や、富士権現を勧請した小社に、市民が陸続参詣した。駒込の富士から神田明神、深川八幡の境内、鉄砲洲の稲荷、目黒行人坂などが、その主なる場所であった、がそれも、今ではお伽噺になってしまった。
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弘法大師は富士権現参詣の帰途に現在の知立・刈谷市域を訪れており、一里山町にある密蔵院は三河三弘法三番霊場である。芋岡が転じて今岡になったとされ、長禄3年に書かれた足利義政袖判御教書に「参河国一木・今岡」として今岡という表記が登場する。
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富士塚町は、愛知県名古屋市東区の地名。清洲越しに伴う城下町造成に際して、当地に鎮座していた富士浅間社を巾下に遷した跡地に塚を造り、改めて富士権現を祀ったことに由来する。
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町家では、前の年の寒のうちに寒水でつくった餅を喰べてこの日を祝い、江戸富士詣りといって、駒込の真光寺の地内に勧請した富士権現に詣り、麦藁でつくった唐団扇や氷餅、氷豆腐などを土産にして帰る。六月朔日の氷室のお祝に、加州侯からお雪をさしあげることは、加賀さまの氷献上といって、これも古い行事のひとつ。
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都良香の記述も延暦21年の噴火を取り上げており、この頃に「浅間神」の呼称が生まれたと考えられている。中世以後の神仏習合時代には「富士大菩薩」「浅間大菩薩」、さらに降ると「富士権現」とも称された。富士山の神霊をコノハナノサクヤヒメに当てる起源は明らかでないが、文献の初見は江戸時代初期の『集雲和尚遺稿』である。
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