姫路城主

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  • 慶長6年には、姫路城主となった池田輝政から寺領9石を与えられた。
  • 抱一は本名酒井忠因ただなお播州姫路城主忠以ただざねの弟として江戸の別邸で生まれた。 大岡信『名句歌ごよみ[春]』より引用
  • 戦後には、それらの功績を賞されて西国の押さえとして、元和3年7月14日に姫路城主となって15万石を領した。
  • しかし翌年の永正16年には義村は再度兵を起こし、浦上氏に対抗する有力家臣である姫路城主小寺則職を主将として美作の浦上方の諸城を攻撃させた。
  • 関ヶ原の戦い後、主君の池田輝政が52万石を領して播磨国姫路城主となると家禄4600石が与えられた。
  • 関ケ原役後、輝政は、播磨はりま五十二万石を領し、姫路城主となった。 柴田錬三郎『決闘者 宮本武蔵(下)』より引用
  • これにより竹田城の瓦は、姫路系瓦工集団が作ったという指摘があり、当時の姫路城主の援助によって築かれたと思われる。
  • 頼季には二子があり、頼秀の流れは美作国岩屋城主を務め、景治の流れは播磨国姫路城主を務めた。
  • 妹には同国姫路城主で、小寺氏の重臣でもあった小寺孝高の妻となった光がおり、また弘善寺の史料によると、その姉に上月景貞室があり、他に弟が三人あったとされる。
  • 青山・土器山の戦いは、永禄12年、播磨国で行われた西播磨守護代赤松政秀と姫路城主黒田氏との間に起きた戦いである。
  • 武将としての器量はあまりなかったが、古くから秀吉に仕えていたため重用され、播磨姫路城主に任じられた上、豊臣姓を下賜された。
  • 居城の志方城は当時東播磨に勢力を持った別所氏の勢力圏内にあって、1万石余りを領していたが、一方で西播磨の有力者・小寺氏とも縁戚関係を結んでおり、娘の一人・光は、同国姫路城主でかつ同国御着城主・小寺政職の重臣だった小寺孝隆の妻となっている。
  • 江戸時代には姫路城主の参詣を仰ぎ、徳川将軍家三代と姫路城主歴代の位牌を安置している。
  • 池田氏に代わって本多氏が姫路城主になると、元和4年に真宗大谷派が当寺から分立し姫路城下の船場へ移った。
  • いわば最高の教養を身につけた女性で、だからこそ昔は大名旗本の宴席にはべっていささかも恥じることはなかったし、高尾太夫の例に見るように姫路城主や、伊達の殿様から側室にと懇望もされた。 五味康祐『いろ暦四十八手』より引用
  • その後、江戸時代に姫路城主池田輝政や明石城主小笠原忠実らに帰依され、一部が再建されて現在にいたっている。 金達寿『日本の中の朝鮮文化 06』より引用
  • 元和の初めの頃、水野家臣・中川志摩助の三男・三木之助を養子とし、姫路城主・本多忠刻に出仕させる。
  • 社殿は平治の乱〔平治元年〕や天正年間の兵火など幾度もの焼失と再建を経て荒廃していたところ、江戸時代初期に姫路城主の池田輝政により復興された。
  • その後、江戸時代に入り、姫路城主となった池田輝政が姫路城の守護寺に定めて援助を行い、池田家の転封後は本多忠政の援助を受け、寛永年間に幕府の命を受けた実相院降恵が再興した。
  • 江戸時代になり、姫路城主池田輝政の三男忠雄が領主になった際に廃城となり、まず岩屋城、次に由良成山城に居城する。
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