奥山荘

12 の用例 (0.00 秒)
  • その養子である朝盛は鎌倉幕府に仕えていたが、和田合戦に敗れ、越後国奥山荘に逃れた。
  • 特に所領相論の際に作成された荘園絵図「奥山荘波月条絵図」などは良く知られている。
  • 佐久間氏の一族だが、先祖のゆかりの地である越後国奥山荘の地名を取って奥山姓を名乗った。
  • 中条氏の祖である三浦和田氏は、鎌倉幕府成立時に越後国奥山荘を与えられて同地に移住、中条氏はその一部を継承した。
  • 最初に城が築かれた時期は不明だが、平安時代末期の治承4年に城資永が越後守に任じられ、奥山荘周辺を支配し、有事の要害として取り立てられたとの説もあるが確実な記録はない。
  • その功により建武政権より奥山荘庄中条・金山を与えられたが、越後和田氏の嫡流で同族の中条氏の領土であったため、以降戦国時代まで中条氏とは領土問題などをめぐり争いが絶えず、越後における内乱の際にはしばしば敵味方に分かれ対立した。
  • また、江戸時代の『寛政重修諸家譜』の佐久間氏の項の記述によれば、親族の佐久間家村の養子となり越後国奥山荘に逃れ、その後尾張国御器所に移り住んだと記述されている。
  • 政景は、晴景方につき、蒲原郡奥山荘黒川城の黒川清実らの援助を受け、景虎打倒を決意した。
  • これに対し、坂戸城主・長尾政景や蒲原郡奥山荘の黒川城主・黒川清実らは晴景についた。
  • だが、上杉謙信の越後平定に奥山荘の諸領主たちも従い、その後継者となった上杉景勝が豊臣政権によって会津若松城に転封されると、彼らも会津領への移住を余儀なくされ、奥山荘は名実ともに解体された。
  • 三浦和田氏の和田義茂が奥山荘の地頭に任命されたのは鎌倉時代の初めであるが、建治3年に北条、中条、南条に分割され、中条を相続した地頭の子息が中条氏を名乗る。
  • 和田氏のうち、義盛の甥である和田重茂は北条氏方につき、重茂は和田合戦において戦死したものの、その遺族には越後の奥山荘が安堵されている。

奥山荘 の使われ方