天文暦

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  • 数学が主にして、天文暦術はむしろ客であったともいい得られよう。 三上義夫『文化史上より見たる日本の数学』より引用
  • なお、天体暦と似た言葉で天文暦があるが別のものである。
  • 各年の正確な期間は、西洋占星術用の天文暦やコンピュータソフトなどを用いて知ることができる。
  • 明治政府が当初、天文暦道の権限をすべて土御門家に与えて、暦の問題を管理させようとしたことは事実だ。 荒俣宏『帝都物語1』より引用
  • この翻訳事業において天文暦術書中に西洋数学に接触したことの多かったのはいうまでもないのであるが、しかも数学の関係においては、さまで重大な影響をしたらしくもないようである。 三上義夫『和算の社会的・芸術的特性について』より引用
  • 一方において和算家が西洋の数学を如何に見ていたかも考えて見なければならぬが、天文暦術においては支那・西洋は日本よりも優れているが、数学の一科に至りては神国は世界に冠たりというようなことを記したものが、多く諸書に見えている。 三上義夫『文化史上より見たる日本の数学』より引用
  • ところで二月三日というこの日は、太陽の方位角は天文暦によれば一六度三〇分だったから、これを二一度三〇分という天頂との距離に加えて、三八度という緯度が得られた。 ヴェルヌ/大久保和郎訳『グラント船長の子供たち(下) 地の果ての燈台』より引用
  • しかし天文暦道局の本局が東京に移転されることになったため、京都の土御門家はその出先機関のような扱いとなり、出張所が設置されることになった。
  • この事業は天文暦術の関係が、最も主要な基底を成して進んだのであり、それから他方面のことが付随したものであったことが、決して見逃してはならないところであろうと思う。 三上義夫『和算の社会的・芸術的特性について』より引用
  • 和算は芸術的の気分を主として、江戸が中心になって発達し、実験学科はこれとは反対に江戸を中心とせずして西の方から起こって来るが、しかし実験科学は元来日本には発達しなかったのであって、天文暦術でも実験観測はあまり栄えずにかえって数学的に処理されたような形跡がある。 三上義夫『文化史上より見たる日本の数学』より引用
  • お陰で光國自身も、その間に、舜水や京の陰陽師などから天文暦術の知識を学ぶことができた。 冲方丁『光圀伝』より引用
  • ホロスコープを作成する際には天文暦などにある室項表からハウスの境界を割り出す必要があり、ハウスの角度はそれぞれ異なっている。
  • 事情すでにかくのごとくなるが故に、天文暦術においては支那西洋は優れているけれども、数学の一科に至ってはわが神州は世界に冠たりと考え、優秀な能力を自ら誇ったものであるが、少なくも支那に対しては、当然の誇りであった。 三上義夫『和算の社会的・芸術的特性について』より引用
  • かくて和算は天文暦術や砲術航海等のことに関して西洋の学問が伝えられつつある間において、これらの関係も多大にありながら、比較的に西洋の影響を受けることが著しからずして、その終末に至った。 三上義夫『和算の社会的・芸術的特性について』より引用
  • 数学がかく天文暦術とすらも、密接な交渉を付けなかったごとき事実は、決してほめたものではないが、しかしそういう状態にあっても、ずいぶん目醒ましい発達が成就し得られるということは、注意すべきことと思われる。 三上義夫『和算の社会的・芸術的特性について』より引用
  • 寛政以後、特に文化文政以来は西洋の暦算書が幾らも伝わった事実があり、天文暦術においてはラランドの天文書すら読破されているが、しかし数学の方面ではそこまでに行かなかった。 三上義夫『文化史上より見たる日本の数学』より引用
  • たぶんみなさんは、海軍天文台を天文暦と潮汐表だけにかかわっているところだと、お考えでしょう。 ハインライン『デリラと宇宙野郎たち』より引用
  • 支那では明末から西洋の伝道師等が盛んに幾何学、天文暦術等の西洋の学術を輸入し、これを修むるものも断続している。 三上義夫『文化史上より見たる日本の数学』より引用
  • 享保16年遠藤の後任として仙台藩の天文暦道掛についた。
  • 九執暦は、中国で唐の開元6年にインド人の太史監であった瞿曇悉達が6代皇帝玄宗の命によりインドの天文暦書()を漢訳したもの。
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天文暦 の使われ方