天文二

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  • 「九月三日」とだけあるが、やはり、天文二十年前後の書状と思われる。 桑田忠親『斎藤道三』より引用
  • その他、高名数を知らず、天文二十一年三十三歳で沓掛城で討死した。 五味康祐『刺客(せっかく)』より引用
  • しかし、だいたい天文二十一年のものではあるまいか、と臆測される。 桑田忠親『斎藤道三』より引用
  • 甲越軍記こうえつぐんきには天文てんぶん二十年二月十二日であったと書いてあるが、あてにならない。 海音寺潮五郎『天と地と(五)』より引用
  • そうでないと、この天文二年十一月二十六日付の連署状の解釈が不可能となるからだ。 桑田忠親『斎藤道三』より引用
  • 天文てんぶん二十二年八月に都を追われて以来、五年ぶりのことだった。 安部龍太郎『戦国秘譚 神々に告ぐ(下)』より引用
  • 嘉靖三十三年はわが天文二十三年だが、この時の倭寇は最も大仕掛であった。 海音寺潮五郎『史談と史論(下)』より引用
  • 天文二十年九月にも、まだ「左近大夫」の通称を用いていたのである。 桑田忠親『斎藤道三』より引用
  • この老人は、天文二十二年の春、信長への忠諫状ちゅうかんじょうを書き残して自殺してしまっている。 司馬遼太郎『国盗り物語』より引用
  • 最初の天文二十三年の時は、出兵したが、戦争はなかった。 菊池寛『日本武将譚』より引用
  • 琵琶歌などでも「天文二十三年秋の半ばの頃とかや」と歌ってあるが、之は間違いである。 菊池寛『川中島合戦』より引用
  • 尾張統一のための信長の活動は、それから三年後の天文二十一年、十九歳の年からはじまっている。 桑田忠親『斎藤道三』より引用
  • あの日は天文二十二年四月二十日であった。 司馬遼太郎『国盗り物語』より引用
  • 天文二十年三月三日、父の信秀がちかごろ築造した末森すえもり城で急死したのである。 司馬遼太郎『国盗り物語』より引用
  • 天文二十年、十八歳で父信秀のぶひでの後を継いだ頃は、〝尾張おわりのうつけもの〟と呼ばれた。 池宮彰一郎『本能寺(上)』より引用
  • 平穏な三日間が経過し、天文二十三年を迎えた。 咲村観『上杉謙信天の巻』より引用
  • 信長棄てて置かれないので天文二十一年自ら来って攻めたけれども却って破られたので、勢を得たのは左馬助である。 菊池寛『桶狭間合戦』より引用
  • 六年前の天文てんぶん二十三年に、氏康うじやすの長男氏政うじまさに娘をくれて姻戚いんせきのなかになっているのだが、それは彼の心を動かすことにはならない。 海音寺潮五郎『天と地と(五)』より引用
  • 古文書の初見としては、天文二十三年だが、当時、利尚は二十八歳であり、当然この初名はそれ以前と推測される。 桑田忠親『斎藤道三』より引用
  • 明くれば天文てんぶん二十二年だ。 海音寺潮五郎『天と地と(四)』より引用
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