大輔井上馨

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  • その企画の中心人物は、建設方面が東京府知事由利公正きみまさと、財政方面が大蔵大輔井上かおるであった。 山田風太郎『警視庁草紙(上)』より引用
  • 一ト月ほど前、前大蔵大輔井上馨の山代官ともいうべき岡田平蔵の屍体が発見されたのはその「からくり煉瓦」の中であったが、同じ場所で発見されたその十八の屍体は、これまたすべて井上の配下であったことが判明したのである。 山田風太郎『警視庁草紙(上)』より引用
  • 幸田は下ッ端役人だが、前大蔵大輔井上馨への関心はむろん大蔵省内でひときわ強く、そこで交されるささやきを、あの夜知らないこととはいいながら現場に立ち合っただけに、彼は人一倍熱心に聞いて来たのである。 山田風太郎『警視庁草紙(上)』より引用
  • 屍骸は、前大蔵大輔井上かおるの用人で、現在は井上にまかされて尾去沢銅山の経営にあたっている岡田平蔵なる人物であったのである。 山田風太郎『警視庁草紙(上)』より引用
  • この岡田平蔵が、長州の商人で、大蔵大輔井上馨の用人とも目される男であった上に、入札した銅山は二十年賦無利息ということにしたから、井上の傍若無人もまたきわまれりというしかない。 山田風太郎『警視庁草紙(上)』より引用
  • 明治4年末、大久保利通や木戸孝允、伊藤博文らの岩倉使節団が2年近い欧米訪問の旅に出発した後、留守を預かった政府内で長州閥のリーダーとなった大蔵大輔井上馨は、上司で大蔵省の長官である大蔵卿の大久保が不在の中で、実質的な大蔵省の長官として財政面を取り仕切り、財政縮減を主張し各省の予算を削ろうとした。
  • 明治6年、大蔵大輔井上馨、大蔵省出仕渋沢栄一が財政制度改革建議書を提出したのに対して、大蔵省事務総裁大隈重信が歳入出見込会計表を公表したが、これが日本の予算の最初であるとされる。
  • 尺振八の私立共立学舎に入学し、翌明治5年に大蔵大輔井上馨と渋沢栄一が人材育成機関として構想した大蔵省翻訳局が発足し、乙骨や尺が登用されると島田とともに応募し上等生徒となる。
  • 明治6年、長州藩出身の明治の元勲の1人で、大蔵省次官の大蔵大輔井上馨は財政縮減をめぐって司法卿江藤新平らと対立し、同年5月に政府を去る。
  • 明治5年6月18日陸奥宗光は大蔵大輔井上馨によって、神奈川県令から大蔵省租税頭に抜擢され、権頭松方正義とともに、地租改正法案の策定にあたることになった。

大輔井上馨 の使われ方