大権現
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名詞
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大路井城跡である小汐井神社にその名が残る。同神社の名は1878年に改称したもので、古くは女体大権現と呼ばれていた。小汐井の語源は「潮斎」であるという。
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熊野神社は、鹿児島県鹿児島郡三島村の硫黄島に所在する神社。硫黄大権現宮とも呼ばれ、安徳天皇晩年の皇居跡とも伝えられている。鹿ケ谷の陰謀で平清盛の怒りを買った藤原成経・平康頼・俊寛は、1177年に硫黄島に流されたが、帰洛のことを祈るのに一心であった。
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京都府道40号上に位置し、京都府京都市左京区静市静原町と大原野村町・大原井出町を隔てる、標高324mの峠。峠の傍らには金比羅大権現の石碑が建っており、歴史の古さを示す。自動車での通行が可能。
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幕末に土佐の志士もこの街道を利用していたため、牛屋口には坂本龍馬像も設置されている。またここから少し外れたところには金比羅大権現の歴代別当の墓がある広谷墓地がある。現在の国道377号はこの街道の流れを汲む道路である。
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以来、「十三社大権現」と称するに至ったと伝えられている。一方で、康治2年の『神野真国荘絵図』において既に「十三所大明神」と記されており、安貞2年の『高野山衆徒置文』においても「庄内神社十三所」と記されている。
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崇峻天皇の第三王子である蜂子皇子が三本足の霊烏に導かれ、羽黒山の阿古谷で聖観音菩薩の霊験を得て開山したとされる。中世にはその垂迹神が羽黒山大権現と呼ばれるようになった。明治の神仏分離によって仏教色が廃され、正史の記録に残る蜂子皇子の開山とされるようになったが、江戸時代初期の『羽黒山縁起』には蜂子皇子の名はない。
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付近は1943年までは、金の採掘や精錬が盛んで多くの坑道が掘られた歴史ある山域。途中には大きな岩に囲まれた黒森大権現が祀られている。山頂からは岩手山や盛岡市街、南昌山や赤林山などが眺められる。
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平安時代後期には後白河法皇の勅により、熊野本社の規矩をとって社殿を建立したものと伝えられている。古来より熊野大権現と呼ばれて、周辺の人々の尊崇を受けてきた。近世には甲斐における熊野四所礼場の一社となる。
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目を剥いて言葉を失うほどの、莫大な利益となった。もちろん大権現様こと家康がかき集めた六百万両とまではいかないが、最低でも数十万両にはなる。そしてその利益が、確実に、年の始まりごとに入ってくるのである。
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新しい大師堂の後ろの古い大師堂が羅漢さんを守っているかのようだ。左奥にひっそりと五社大権現が忘れられたかのようにある清楚なたたずまいがうれしい。遠くの景色は瀬戸内の海、ロープウェイの下はけわしい山なみ、昔日を想い感無量。
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平成8年、ねむの丘道の駅造成のため鉄道沿いに移転される。平成20年、前川の今野祐輔氏は下居大権現に毎年下旗を奉納している。平成24年、小学校の副読本に惣助翁の堰堀が偉業として載っている。
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創祀は宝永2年とされるが、社家記録によると貞観5年とも伝わる。往古、女体大権現と称されていたが、明治11年に現在の社号に改められた。明治9年に村社に列格している。
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茂辰は佐賀藩留守家老として諫早茂敬・鍋島茂綱と協議し、「公儀の命令無しに出陣はできない」といったん拒否し、その後、幕府の命令を待って出陣した。この時、現小城市にあった熊野山大権現において武運長久を祈願させている。また乱の鎮圧後、寛永17年頃に、配下の戦死者99名を弔うため、通玄院を建立。
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日本山岳会岐阜支部などが中心となり2007年8月11日に藤波谷登山道を開設し、その中間点付近では「小津の森のづくり」の活動が行われている。切り開かれた山頂には二等三角点と大権現白山神社の小さな祠がある。西側以外は展望が開けクマザサが生い茂えり、北側に花房山その奥に能郷白山、白山、北アルプス、御嶽山や濃尾平野を望むことができる。
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あるものは飛騨、あるものは武州、あるものは上州、越後の講中の名がそれらの石碑や祠に記しつけてある。ここは名のみの木曾の総社であって、その実、御嶽大権現である。これが二柱の神の住居かと考えながら歩いて行く半蔵は、行く先でまごついた。
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と秋葉山大権現を三尺坊とは別の神霊とした上で祭神名を大己貴命と説いている。
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これにより神仏習合が進み、筑波山は有数の修験道の道場に発展していく。この神仏習合の時代には「筑波両大権現」とも称されていた。国史では、古くは弘仁14年に従五位下の筑波神を官社と為すという記事が見える。
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