大御所徳川家康

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  • 四月十七日のこと、大御所徳川家康公は享年七十五で御他界、と公表された。 桑田忠親『戦国史疑』より引用
  • 元和2年には、一色範勝が大御所徳川家康のもとで幕府饗応役に任じられている。
  • これが、『駿府記』に出てくる大御所おおごしよ徳川家康の述懐なのだ。 桑田忠親『戦国史疑』より引用
  • 本町橋で陣所が夜襲を受けた際の働きで、大御所徳川家康、将軍秀忠より感状を受ける。
  • ところが、ある奇説によると、この第三の本当の徳川家康も、実は、大坂夏の陣の乱戦中に戦死してしまい、その後の、いわゆる大御所おおごしよ徳川家康は、百姓老爺おやじの替え玉だというのである。 桑田忠親『戦国史疑』より引用
  • 途上の駿府にて大御所徳川家康に、8月28日に江戸城にて将軍徳川秀忠に謁見した。
  • 慶長19年に起こった方広寺鐘銘事件では、駿府の大御所徳川家康の元へ使者として派遣される。
  • 神宮伝奏と大御所徳川家康の間で遷宮費用の負担についての協議が行われ、翌慶長14年2月には家康から6万石分の兵粮米が造営費用として支給されている。
  • 正純の父・本多正信は将軍秀忠付の年寄、正純は駿府の大御所徳川家康の側近であった。
  • 戦後、大御所徳川家康から参陣の功として政宗に与えられた伊予宇和島10万石を別家として嗣ぎ、同年12月25日にその初代藩主となった。
  • 天皇が即位すると大御所徳川家康は徳川和子の入内を申し入れ、慶長19年4月に入内宣旨が出される。
  • 庶長子であった兄の秀宗は、慶長19年の大坂冬の陣に父と共に参陣し、戦後に大御所徳川家康から伊予宇和島10万石を与えられて別家を興したため、忠宗が伊達宗家の後継者と定められた。
  • 大御所徳川家康の隠居の地である駿府城下に造られた幕府公認の遊郭で、1万坪もの広大な面積を誇っていた。
  • 慶長13年、大御所徳川家康の命によって家康の次男・結城秀康の娘の喜佐姫を正室に迎え、越前松平家の一門となり松平長門守を称した。
  • 慶長19年、秀行の妻振姫の勘気に触れ、重政が失脚すると大御所徳川家康の斡旋により、蒲生家への帰参を許されるが、会津へ向かう途中で病死した。
  • 土井利勝、安藤重信、酒井忠世の連判の元、徳川秀忠が発令したが、法令の立案者は大御所徳川家康であった。