大御所徳川

32 の用例 (0.00 秒)
  • 四月十七日のこと、大御所徳川家康公は享年七十五で御他界、と公表された。 桑田忠親『戦国史疑』より引用
  • 元和2年には、一色範勝が大御所徳川家康のもとで幕府饗応役に任じられている。
  • これが、『駿府記』に出てくる大御所おおごしよ徳川家康の述懐なのだ。 桑田忠親『戦国史疑』より引用
  • 元和9年頼宣の供をして上洛し、大御所徳川秀忠、将軍家光に拝謁する。
  • 宝暦元年、大御所徳川吉宗薨去の際に、弔問使として江戸に下る。
  • 神田の孔雀茶屋の看板娘のお照は実は大御所徳川家斉の隠し子の照姫である。
  • 親兵衛の造形には打ちこわしの際に現れたという大童子の姿が重ねられており、また親兵衛の京都物語に登場する足利義政批判に大御所徳川家斉批判が、虎退治の物語には大塩平八郎の乱の隠喩があるともされる。
  • 本町橋で陣所が夜襲を受けた際の働きで、大御所徳川家康、将軍秀忠より感状を受ける。
  • ところが、ある奇説によると、この第三の本当の徳川家康も、実は、大坂夏の陣の乱戦中に戦死してしまい、その後の、いわゆる大御所おおごしよ徳川家康は、百姓老爺おやじの替え玉だというのである。 桑田忠親『戦国史疑』より引用
  • 途上の駿府にて大御所徳川家康に、8月28日に江戸城にて将軍徳川秀忠に謁見した。
  • 慶長19年に起こった方広寺鐘銘事件では、駿府の大御所徳川家康の元へ使者として派遣される。
  • 寛永9年に奉行・物頭を対象とした9か条の条目を先駆とするという説もあるが、大御所徳川秀忠の没後に動揺する旗本・御家人ら徳川将軍直属の家臣の統制を意図した法令として出されたと考えられている。
  • 神宮伝奏と大御所徳川家康の間で遷宮費用の負担についての協議が行われ、翌慶長14年2月には家康から6万石分の兵粮米が造営費用として支給されている。
  • 正純の父・本多正信は将軍秀忠付の年寄、正純は駿府の大御所徳川家康の側近であった。
  • 戦後、大御所徳川家康から参陣の功として政宗に与えられた伊予宇和島10万石を別家として嗣ぎ、同年12月25日にその初代藩主となった。
  • 亀鶴姫の母親は大御所徳川秀忠の娘であり、さらに亀鶴を一度徳川将軍家の養女として引き取り、その後改めて森家に嫁がせるという徳川将軍家と森家の縁組という段取りであり、森家にとって大変大きな意味を持つ婚姻であった。
  • ところが、この転封が武蔵川越藩主松平斉典が実子を排除して大御所徳川家斉の子斉省を養子に迎えたことと引換に豊かな庄内藩を与えるために行われるものと判明したために庄内藩内は紛糾した。
  • 天皇が即位すると大御所徳川家康は徳川和子の入内を申し入れ、慶長19年4月に入内宣旨が出される。
  • 天保9年からは西丸留守居となり、大御所徳川家斉に仕えた。
  • 庶長子であった兄の秀宗は、慶長19年の大坂冬の陣に父と共に参陣し、戦後に大御所徳川家康から伊予宇和島10万石を与えられて別家を興したため、忠宗が伊達宗家の後継者と定められた。
  • 次へ »