大凧を揚げる
8 の用例
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聖徳太子の時代から毎月「八」の付く日に市が開かれていたとされ、それが地名の由来となった。
面積が畳百畳分にも及ぶ大凧を揚げる「大凧まつり」の開催地としても知られた。
また、戦前には八日市飛行場が所在していた。
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東軍側の大凧は綱を引くことにより上よりも横方向へ動くように製作調整されている。
その後、西軍も大凧を揚げるが西軍側の大凧は綱を強く引くことにより高く舞い上がった後、左回りに回転し真っ逆さまに川面に突き刺さるような動きをする様に製作調整されており、タイミングを見計らって大凧の揚げ手が全力疾走すると東軍側の大凧の綱に絡み合うように落下し両軍の大凧は絡み合うことになる。
絡み合った後、凧綱が切れるまで引き合い、切れてしまった側が負けとなる。
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日本国内では、正月のほか、5月の端午の節句の行事として子どもの成長を願って全国各地で凧揚げ大会が行われることが多い。
滋賀県東近江市では面積100畳、重さ約700キロの大凧を揚げる「八日市大凧祭」が行われている。
八日市大凧は江戸時代中期から始まった。
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近年、期間中の人出は年次によって100~150万人程度で推移している。
これまでその起源は、室町時代の永禄年間に、引間城の城主であった、飯尾豊前守の長男・義廣公の誕生を祝って、入野村の住人であった佐橋甚五郎が義廣公の名前を記した大凧を揚げた、という史書『浜松城記』の記述を定説としていたが、近年になってこの縁起そのものが大正時代の創作であることがわかっている。
現浜松市の市域において、端午の節句に凧を揚げることに関する最古の資料は、有玉下村在住の国学者・高林方朗の日記で、寛政元年4月に初凧を購入したという記述が確認されている。
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両地区が信濃川の分流である中ノ口川を挟んで両岸から大凧を揚げて絡ませ、凧の綱が切れるまで引き合い勝敗を決める勇壮な祭である。
元文2年に始まったと伝えられる白根大凧合戦の起源は3つほど伝えられているが「殿様より拝領した凧を揚げたところ対岸の家屋に落下し、屋根を損壊、これに怒った対岸の住人が更に大きな凧を作り、わざと落として屋根を壊して仕返しをした」のが始まりとする説が最も有名である。
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練りではラッパのリズムに合わせられる。
凧揚げ合戦は、町ごとが「組」や「連」というかたちで参加し、それぞれ固有の町紋が描かれた大凧を揚げ、組同士で凧糸を切り合って競うものである。
凧揚げ合戦は遠州灘海浜公園で行われ、会場は「凧場」と呼ばれている。
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「起源考」に引く『城記』は、浜松城の歴代の城主の在城期間を記したものとなっており、その間に凧揚げに関する記述がされているだけの箇条書きの文書で、分量も活字に直してA4用紙1~2ページ程度である。
浜松まつりの凧揚げに関する記述としては、飯尾豊前守の長子・義広の誕生を祝い、入野村の住人佐橋甚五郎が義廣の名前を大書した大凧を揚げたことが起源であると記されている。
また、堀尾吉晴・太田資次など、凧揚げを奨励したり凧揚げの風習を他所へ広めた城主の記述も見られる。
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現在では、「近江八日市の大凧揚げ習俗」は国の選択無形民俗文化財に選択されている。
他にも大凧を揚げる大会としては新潟市の「白根大凧合戦」、浜松市の「浜松まつり」、愛媛県内子町の「五十崎の大凧合戦」、他には相模原市、神奈川県座間市、埼玉県春日部市などの凧揚げ大会が知られている。
マレーシアでは民族の象徴的な存在であり、紙幣やコインのデザインとしても採用されている。
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