大きな感銘を与え
18 の例文
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長野政雄氏の死は、いかに後々まで多くの人に大きな感銘を与えたことであろう。他教会から六条教会に転じたわたしが長野政雄氏のことを知ったのは、昭和三十九年七月初めのことであった。
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彼は多くの抗議活動に関わり、教師に不忠者のレッテルを貼られた。エカテリンブルクという都市はバジョーフに大きな感銘を与えた。彼は後年、ここに住むために戻っている。
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すると、授賞者側の日本文学振興会理事長の佐佐木茂索も、珍しく再び壇上に立って文学館への協力を約束すると共に、来会者にも支援を呼びかけた。佐佐木茂索が自ら立ってこういう約束をするということはまったく異例のことで、このことが来会者に大きな感銘を与え、募金運動は大きく拡大された。新聞社、出版社等報道機関が全面的に賛同して、政府を動かし、補助金を獲得しようということになり、五月二十日の「近代文学館を励ます会」にまで発展した。
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戦時下の投獄経験は俳人としての大きな転機をなし、戦後、獄中で紙石盤に書き付けておいた若干の句を含めて獄中吟の連作として発表した。当時獄中吟をまとめた俳人は不死男のみで、俳壇に大きな感銘を与えることとなった。初期から評論においても活躍したが、戦後は1954年に『俳句』誌に発表した「俳句と『もの説』」において、スローガン的な社会性俳句に疑問を投げかけつつ、俳句という形式は「事」ではなく「もの」に執着しなければ崩れてしまうと論じ「俳句もの説」として注目を集める。
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再びコインブラにやってきたベルナルドはコインブラ大学などで学んでいたが、積年の疲労から再び床に就き、そのまま衰弱して1557年3月のはじめの四旬節に死去した。東洋から来たベルナルドの深い信仰と清い生き方は、ヨーロッパのイエズス会員たちにその死に至るまで大きな感銘を与えた。
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いまや頬は落ちくぼみ、老いさらばえ瘠せ衰えた幽霊のような姿でベッドに横になっている。つい先刻まで彼の声は朗々と豊かで、まるで声音そのもののうちになにか重大なものが宿ってでもいるかのように、なにを語っても他人に大きな感銘を与えることができると、いつも自信満々であったのに、今はささやき声を出せるだけ。
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井上自身も、第四艦隊長官として珊瑚海海戦を指揮した時のことを「教官研究会」で話した。井上の率直で謙虚な「珊瑚海海戦報告」は、教官たちに大きな感銘を与えた。井上は、訓育を担当する監事に比叡艦長時代に作成した「勅諭衍義」を配布して、監事たちの思想統一を図った。
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この流れを受けて、防衛庁技術研究本部も、昭和48年度より「強化プラスチック艇」に関する研究開発を進めており、1978年にははつしま型の機関部と同寸法の船体が試作された。これは翌年より静的・動的強度試験に供され、特に耐爆試験においては、掃海隊群関係者に大きな感銘を与える結果となった。
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シューリヒトはかなり高齢になってから世界的名声を得た人であり、特に晩年はリウマチの悪化により、杖をつきながらかなり長い時間をかけて指揮台に登場した。しかしひとたび指揮台に上がると、年齢を全く感じさせない輝かしい生命力が、彼の指揮姿からもその音楽からも湧き出て、聴く者に大きな感銘を与えた。シューリヒトの演奏スタイルは、基本的にテンポが非常に速く、リズムは鋭く冴えており、響きは生命力に満ち、かつ透明度の高いものであった。
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「足るを知るものは富む」 それは『老子』第三十三章にある言葉で、分に安んじて満足できるものは、たとえ貧しくとも精神的には貧しくはない、という意味である。世には立身出世主義の風潮が滔々と流れ、華美や絢爛を謳歌している時代に、鈴木校長の短いこの訓示は生徒たちに大きな感銘を与えた。また、鈴木校長は海軍兵学校の伝統ともなりつつあった鉄拳制裁を厳禁した。
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国外では同様の潜水艇事故の折、脱出しようとした乗組員が出入口に殺到し、最悪の場合は乗組員同士で互いに殺し合うなどの悲惨な事態が発生していた。それゆえ、出入口へ殺到せずに最期まで潜水艇を修繕しようとしていた佐久間および乗組員の姿は大きな感銘を与え、各国から多数の弔電が届いた。国内では長らく修身の教科書に「沈勇」と題して掲載されていたほか、夏目漱石は事故の同年に発表した「文芸とヒロイツク」において、佐久間の遺書とその死について言及していた。
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酷く面目を失った女は、余儀なくその場を去るが、後になって、男の自殺を止めようとした自分の試みが失敗に終ったことを人づてに聞くのである。素晴らしい話術で説き進められ、間然するところのない動機づけを持ったこの物語は、確かに、それだけとしても立派に通用し、必ずや読者に大きな感銘を与えるであろう。けれども精神分析の教えるところに従えば、この物語の筋書は、かなり多くの人々にあっては意識的なものとしてさえ回想せられるような、思春期の一願望空想という、ひどく古い根柢に基づいているのである。
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開校式には、一六人の長岡高校OBが参加した。日本から持参したピアニカでカンボジア国歌を演奏したり、式のあとはプラスチック製のバットとボールで子どもたちと遊ぶなど、型にはまらない心の交流はカンボジアの人々に、大きな感銘を与えたのであった。平成12年4月、カンボジアの「米百俵」スクール開校式であいさつするクリッシャーさん。
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オープン化措置が実施された1968年、ブエノは自動車事故に遭い、生死の境をさまよう大怪我を負う。回復までに5度の大手術を克服し、長いブランクを乗り越えて1974年に現役復帰を果たした時、その強靭な精神力は同僚の選手たちやテニスの観客にも大きな感銘を与えた。この年にブエノは日本を訪れ、「ジャパン・オープン」で優勝を飾った。
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ヒーリーは1952年のロンドンモーターショーに向け1台のヒーリー100を製作。そのデザインはオースチンの社長であったレナード・ロードに大きな感銘を与え、オースチンのロングブリッジ工場で量産される契約がヒーリーとの間に結ばれ、その車は「オースチン・ヒーリー100」と改名された。
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この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年に『武士道』の初版が刊行されると、やがてドイツ語、フランス語など各国語に訳されベストセラーとなり、セオドア・ルーズベルト大統領らに大きな感銘を与えた。日本語訳の出版は日露戦争後の1908年のことであった。
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大正七年の春から夏にかけ、司令官鈴木中将は久しぶりに海の気を胸いっぱいに吸い、太平洋横断の遠洋航海に生き返ったかのような想いを味わった。サンフランシスコでは艦隊は大歓迎をうけ、それに応えて市長招待の歓迎会でおこなった鈴木司令官の演説は、来会者ばかりでなく、アメリカの官民に大きな感銘を与えた。それは海軍次官当時から「軍艦をつくり、動かすのは万が一のときの国防のためであり、それ以外のなにものでもない」と常にいっていた鈴木の、一貫した信念に根ざしたものであった。
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