多方
全て
名詞
16 の例文
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一方、伝令・連絡といった手段に馬を用いる場合は、ごく少数であっても事足りる。指揮官のみが馬に乗る場合でも、その指揮官が多方に命令を下すために用いる場合は、馬の高速性は有効に機能した。一方で騎馬民族の場合は、馬の所有が普遍的であり、その場合は全てが騎兵で構成された軍というのも成立しえた。
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ほかにも、軍隊経験を書いた作品など、いわゆる〈大正デモクラシー〉の流れとも関連したこれらの作品が、その後のプロレタリア文学に関係したのであった。多方、ある程度の教育を受けた知識階層からも、労働者の現状などを文学で表現しようとするものも現れる。小牧近江・金子洋文たちは、雑誌『種蒔く人』を発刊し、社会の現状の改革と結びついた文学を試みた。
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以降はコント55号としての活動よりも単独での活動に重点を置き、テレビ、ラジオ、映画と多方に渡り活躍。そんなある日、とあるタクシー運転手から「欽ちゃん、刑事さんをあまりいじめないでくれよ」と言われる。
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それから又殊に予の研究したいと思ふのは泰と歸妹との兩卦に見えてゐる帝乙歸妹の語である。帝乙といふ語は、尚書にも酒誥・多士・多方の三篇に各々一たび見えてゐる。これに就いて從來餘り深く穿鑿した人はないやうであるが、史記殷本紀に周武王爲天子、其後世貶帝號、號爲王、とあるのに對し、史記志疑の著者梁玉繩の挾んだ非常な疑問があつて、大に參考となる。
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一話ごとに『今は昔』と云ふ冒頭を置いてある處から、全集の題名が起つてゐる。内容の豐富なのに驚かれるばかりでなく、取材の多方多面なのも他の説話集の比でない。大體を三部に別けて天竺震旦本朝の傳説、逸事、史譚、怪談、巷説の類を根氣よく集め、それを編者一流の氣骨ある文章で記してある。
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日本では主として、ドゥルーズおよびガタリの共著『千のプラトー』の中の登場する比喩的用語あるいは哲学用語として知られている。両者は、伝統的に西洋の形而上学はある絶対的な一つのものから展開していくツリーのモデルをとってきたと解釈し、それに対抗して、中心も始まりも終わりもなく、多方に錯綜するノマド的なリゾームのモデルを提唱。狙いは、体系を作り上げそれに組みこまれないものを排除してきた西洋哲学に反抗し、リゾームをモデルに発想の転換をさせるところにある。
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召誥の外に、同じやうな考へは多士篇にも現はれて居ります。それから全體の革命の上の考へではありませんけれども、無逸とか君奭とかの諸篇の中にも皆歴史的思想といふべきものは多少現はれて來て居りまして、それから多方、前に申しました立政の諸篇にまで、ますますそれが現はれて居ります。
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階段は石塔をめぐり、あるいは宙廊へと連なって、神殿の印象をことさらに複雑なものとしていた。林立する石塔を、多方から昇る階段がとりかこみ、直立した迷路のようになっているのだ。石塔に浮き彫りにされた顔、石柱に彫られている文様が、なおさら印象を強くしているようだ。
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是故に棋に走らざるの走有り、下さゞるの下有り。人を誤る者は多方にして、功を成す者は一路のみ。能く局を審にする者は則ち多く勝つ。
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でその周公に關係したことと申しますといふと、例へば大誥・康誥・酒誥・召誥・洛誥、之を五誥と申しますが、その五誥であるとか、或はそれに續いてあります所の無逸・君奭・多士・多方・立政、さういふ諸篇は皆周公に關係したものであります。それが先づ大體に於て尚書の中でも比較的正確なものだと思ひます。
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町奉行は南北ふたりのどちらかが出席し、常時四、五人いる寺社及び勘定奉行は月代わりで当番をつとめた。評定所では時に老中と大目付が加わって重要な案件を扱うが、日ごろは多方に管轄がまたがる厄介な民事訴訟を扱っている。たとえば町奉行の管轄下にある江戸の町人が勘定奉行の支配下にある関八州の農民から訴えを受けた場合は軽い訴訟でも評定所で審議される。
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余燾が洪範を改正せんとした事は宋の龔明之の中呉紀聞卷二に見えて居る。王柏の説は其の著なる書疑に出で、堯典、皐陶謨、益稷、洪範、多方、立政諸篇に於て、皆其の錯脱に注意し、己が意見を以て更定して居る。金履祥は其門下に出て、尚書表注の著があつて、やはり尚書各篇に更定を試みて居る。
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末期の蒸気機関車の運転形態であるが、朝の上り列車が逆機になり、逆に午後の下り列車が逆機となる変則運転だった。改正鉄道敷設法別表第26号に規定する予定線「山形縣米澤ヨリ福島縣喜多方ニ至ル鐡道」の一部で、日光線・野岩線・会津線と結んで東北地方南部を縦貫する野岩羽線構想の一翼を担うはずであった。
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北側では会津線・只見線・磐越西線を経て同表第26号の「山形縣米澤ヨリ福島縣喜多方ニ至ル鐵道」である日中線、南側では日光線を経て同表第35号の「栃木縣鹿沼ヨリ栃木ヲ經テ茨城縣古河ニ至ル鐵道」と結び、山形県米沢市と茨城県古河市を結んで奥羽本線と東北本線とを短絡する野岩羽線構想の一部を形成していた。その後、日本鉄道建設公団建設線として建設が進み、予定線のうち東武鬼怒川線と並行する今市 - 藤原間を除き、橋梁、トンネルを含むほとんどの鉄道施設が完成していたが、国鉄再建法により工事が凍結された。
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福井藩士菅沼左門高次の子として生まれる。天保2年福井藩家老本多方恭の養子となる。天保6年養父方恭の隠居により家督知行2800石を相続。
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