境内絵図
7 の例文
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六国見山の由来は、旧国名で相模、武蔵、安房、上総、下総、伊豆の六国が見えたことに由来して六国見山と名づけられた。元亨3年から建武2年ぐらいの間に成立した「円覚寺境内絵図」に「六国見」と記載されているのが資料上の初見とされている。
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このように、古くから両社は松尾大社の末社であった。室町時代初期の「松尾神社境内絵図」では、櫟谷社・宗像社両社は独立社殿ながら隣接して描かれている。明治維新後、明治11年3月に両社は松尾神社摂社に定められた。
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金岡庄は元は藤原氏と大和興福寺の所領であったが、南北朝時代には大和額安寺の所領となった。元亨3年、額安寺と土地の地頭が金岡庄を検分し、それを記録したとされる西大寺観音院境内絵図によれば、境内に市場があり、酒屋・魚屋・餅屋・筵屋・鋳物師などの商人が店を開き繁栄していた。また室町時代前期の永享12年の『西大寺古縁起』には金岡浦とあり、吉井川河口の港町として現在の金岡地区周辺が栄えていた。
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月読神社の京都への勧請に際しては渡来系氏族の関わりがあったと考えられており、古代京都の祭祀や渡来文化の考証上重要な神社であるとして、境内は京都市指定史跡に指定されている。なお室町時代初期の「松尾神社境内絵図」によれば、かつての社殿としては本殿・拝殿のほか、假殿・庁屋・講坊・贄殿等があった。松尾大社神幸祭では、松尾大社本社や他の松尾七社とともに月読神社も出御するが、月読神社のみ神輿ではなく唐櫃を出すこととなっている。
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同時に、西大寺の門前町として市場が発達し賑わった。元亨2年の西大寺境内絵図では、西大寺門前町には定期市が立ち、市場数は2反で、金岡庄の地頭方と領家方に分かれていた。酒屋・魚座・餅屋・莚屋・鋳物座などがあり、酒屋は毎年一家ごとに100文、魚座は毎年300文を地頭や領家に差し出したほか、酒屋は市の日に地頭へ酒2升を差し出すこととなっていた。
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大和国一宮の大神神社の御祭神でもある。thumb|270px|金刀比羅神社境内絵図thumb|270px|大正期の金刀比羅神社参道正面 thumb|270px|大正期の金刀比羅神社拝殿と回廊 京丹後市峰山町の金刀比羅神社は、文化8年峯山藩7代藩主京極高備の命によって創建された。京極高備は、讃岐の金毘羅権現の霊威感応が迅速で、たびたび効験を深く感じたことにより、分霊を峯山に勧請することを望み、文化7年3月、昌峯山増長院の僧・尊光に相談した。
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