境内墓地
34 の例文
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正保3年、秀綱が亡くなると家臣たちは非常に悲しみ、菩提を弔うために本寺を建立した。境内墓地の奥に秀綱の墓となっている大きな五輪塔がある。
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万延元年、桜田門外の変で大老の井伊直弼を襲撃した水戸浪士の一人である広木松之介は、鎌倉へ逃れた際に上行寺にかくまわれたというが、同志が刑死した事を知り、後文久3年の3月3日に切腹したという。境内墓地には松之助の墓があり、1916年には石碑が建造された。
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これを継いだ丹山は第2代藩主竹中重義の援助を受けて寛永年間に堂宇を再建し、中興の祖とされた。境内墓地にはかつて瀧廉太郎の墓や記念碑があった。これは、当寺の近くに住んでいた廉太郎の父が建てたものである。
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準別格本山で、海龍山本泉寺増徳院と号する。もとは元町1丁目にあり、現在の横浜外国人墓地は境内墓地であった。
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同寺は水野家の菩提寺であり、境内墓地には水野廣徳の墓がある。
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坂部城に在城の15年間に三男四女の計7人の子女が出生している。境内墓地には於大の方をはじめ、久松松平家の13基の墓がある。毎年3月16日には、於大の方が女性の幸福招来を願って始まった観音懺法会が行われる。
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本尊は阿弥陀如来。境内には、境内墓地、総墓、 地蔵尊、子安地蔵尊が奉安されている。永禄年間、應誉明感上人により開山した。
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通称は草津吉和屋彌右衛門と称した。墓所は広島市西区の海蔵寺境内墓地にあり、墓石には地蔵尊が用いられている。法号は釋範信々士。
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中沢の石門心学は庶民だけでなく、江戸幕府の老中松平定信や本多忠籌や戸田氏教などの大名などにも広がり、江戸の人足寄場における教諭方も務め、1803年に没した人物である。境内墓地には、中沢の他に川島正次郎や大関楯山を始めとする7人の関取の墓も存在する。梵鐘は、7世蓮成院日悟の時代、1719年に鋳造されたものである。
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また埋葬されている人々の業績を紹介する資料館を併設している。キリスト教形式の墓石が多いため意外に思われることが多いが、元々は、現在の元町にあった真言宗準別格本山増徳院の境内墓地であった。平成の初期まで、当地では増徳院による供養も行われていた。
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岡山の市街地で時折、雲水姿の托鉢僧を見かけるが、彼らは曹源寺の修行僧である。また、境内西側には、徳風会式吉相墓の境内墓地がある。これは戦後GHQの政策による寺院所領の没収によって困窮を極めた同寺が、窮余の一策として境内を徳風会に委託し墓地として販売したことに由来する。
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大小二つあって、小さい方は本堂内に保存されており、打つとカーンと金属性の音がする。また、境内墓地には、勤王の志士・近藤正慎の墓がある。
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後陽成天皇により勅願所ともなった。また境内墓地には石川五右衛門の墓があり、これは処刑前に市中を引き回された五右衛門が大雲院門前に至った際、貞安が引導を渡した縁による。その後、度々、火災で焼失し、明治初期に再建されたが、周囲が繁華街となったことで、1972年に、髙島屋京都店増床に伴い、東山区の大倉喜八郎旧邸を買得して再移転した。
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本堂も再建できないまま現在に至っている。仏事及び境内墓地管理は貞永寺住職が兼務している。
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江戸時代には仙台藩主の伊達家から保護を受け、以後現在まで法燈を伝承する。なお、現在の境内墓地には、慶長6年に尼寺で自決したという和賀郡領主の和賀忠親主従の墓が残る。
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また、明治年間に大修理をおこない、昭和40年に近代的な建造物に再建築された。境内墓地には、井原西鶴門下四天王の一人、談林派の俳人水田西吟の墓がある。西吟は生年不明、没年は宝永6年。
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境内墓地の最上段には、今川氏輝の墓や雪斎の墓、天正18年、家康が関東移封となった後に駿府城主となった豊臣家臣・中村一氏の墓がある。