埴輪
全て
名詞
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たとえば『日本書紀』の雄略天皇などについての記述をみると「胡床」というものに貴人たちが腰かけていたことがわかる。
また、埴輪のなかにも椅子にすわった人物像がいくつも発見されている。
平安時代になってもその習慣はかわらず、四角形で四脚の椅子が使われていた。
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加藤秀俊『一年諸事雑記帳(下) 7月~12月』より引用
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私は土師氏は読んで字のごとく、土の師、つまり土木技術者とみている。
そして、古墳の造営に関連して埴輪製作を担当していたと推定している。
土師氏は、古墳時代終末ののち改姓を願いでた。
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金達寿『日本の中の朝鮮文化 02』より引用
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古墳時代の人々がどうしてそれに気づいたかを考えてみるためには、埴輪人形を近くからでなく、三間、五間、あるいはそれ以上に、時には二、三十間の距離を置いて、ながめてみる必要があると思う。
それによって埴輪人形の眼は実に異様な生気を現わしてくるのである。
もしこの眼が写実的に形作られていたならば、少し遠のけばはっきりとは見えなくなるであろう。
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和辻哲郎『人物埴輪の眼』より引用
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これらの特殊土器類が発達し変遷して円筒埴輪の発生や成立に関係した。
特殊器台型土器・特殊壺型土器とも言われる。
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その中心に描かれているのは、奇妙に頭の大きな人間だった。
その顔は埴輪のように穴のような眼と口だけしか描かれていない。
その人物像の周りには、びっしりと見慣れぬ文字が書かれてあった。
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牧野修『アロマパラノイド 偏執の芳香』より引用
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葺石・埴輪のほか、出土遺物の大半は埴輪破片である。
前方部からは人物・動物・器財などの形象埴輪の出土が確認されている。
また、後円部からは墳丘に近い周濠全体からは円筒埴輪が出土している。
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本殿の意外な大きさに驚いたのだ。
本殿は高さ一〇メートルほどで、弥生時代の埴輪家そのままの形だった。
日本の原初的な建築様式で、天地根元造という形式だ。
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梅原克文『カムナビ(下)』より引用
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三重県松阪市に所在する宝塚1号墳は伊勢国で最大の前方後円墳である。
この古墳の造り出し付近の発掘調査で埴輪の配置が明らかにされている。
造り出しと前方部との間に船形埴輪と家形埴輪が置かれていた。
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組合式石棺の蓋石上に割石小口積みで竪穴式石室が構築されている特異な形態で、京都府向日市向日の妙法山古墳との類似が指摘されている。
細部の調査は行われておらず、墳丘上の埴輪や葺石は確認されていない。
石棺内部は朱塗され、成人男女2体の遺骸とともに出土遺物が見られる。
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博物館のなかに陳列されているのは、そのような埴輪ばかりではなかった。
これもその埴輪とおなじく、芝山古墳群のうちの殿塚、姫塚からの出土が主だったが、頭椎大刀をはじめ、鉄直刀、鉄鏃、それから金環、翡翠勾玉などの装身具や、いろいろな馬具、須恵器など、じつにバラエティーに富んだものであった。
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金達寿『日本の中の朝鮮文化 01』より引用
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また前方後円墳の形式にも変化が生じ、陪塚が見られなくなり、葺石の使用も少なくなり、墳丘の段築も3段が基本であったものが2段に減少する。
そして関東地方を除くと埴輪も使用されないようになっていく。
つまり6世紀の前方後円墳は大きさばかりではなく視覚的な見栄えも低下しており、当時の社会における前方後円墳そのものの位置づけにも変化が起きてきたと考えられる。
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後円部法面の調査が行われ墳端埴輪列と葺石の確認作業がなされた。
沢田大塚古墳は、円山の北西尾根山麓付近、沢田集落の近くに位置する。
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また埴輪の人形や馬と同じ形のものを、石で作つてお墓に立てたこともありました。
これを石人、石馬などゝ申してをります。
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浜田青陵『博物館』より引用
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副葬品として出土する古墳時代の「短甲」の呼称は奈良時代の文献である『東大寺献物帳』や『延喜式』などの文献において「短甲」と「挂甲」の記述が見られるため、明治期の考古学や歴史学において歩兵用と騎馬兵用に対応するとして「短甲」の名称が当てられた。
主に古墳の副葬品として出土し、埴輪や石人にも着装した姿が見られる。
九州から関東にかけて広い地域の古墳より遺物が出土しており、東北地方出土の埴輪にも見られることから、日本全土に普及していたと考えられる。
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墳丘は複数の主体部構築のため2回の改変が行われている。
墳丘と周溝から埴輪が発見されたが、第1次墳丘に伴うものとみられる。
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各窯の本体は、切り合い関係の精査により、同時操業されたものではなく、中央の作業場を共有しながら順序よく、継続的に築かれたものであることを確認した。
埴輪生産は5世紀末葉から6世紀末葉まで継続されたものと推定される。
なお、遺跡周囲には生出塚古墳群に属する多数の古墳が分布している。
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墳丘はおろか遺構、遺物の分布も確認されていなかった場所ではあったが、浄元寺山古墳のすぐ南に隣接するため、その関連施設の存在も予想されたため、事前の発掘調査が行なわれることとなった。
調査が開始されるとすぐに、埴輪列と鉄器を埋納した遺構が検出された。
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二点の円筒埴輪の断片から、まったく同じ指紋が見つかった。
埴輪作り専門の技術者がいたのではないか、と現場は色めき立った。
また、技術者によって、指紋が磨滅している人とそうでない人がある事実もわかった。
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堀ノ内雅一『指紋捜査官 「1cm2(平方センチ)の宇宙」を解き明かした男の1万日』より引用
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前方部からは人物・動物・器財などの形象埴輪の出土が確認されている。
また、後円部からは墳丘に近い周濠全体からは円筒埴輪が出土している。
これら埴輪の製作時期は5世紀後半と見られる。
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遥子はそのまま橋本直美を先導するようにして一緒に考古課の準備室へ入った。
がらんとした部屋の、一方の壁に沿って、八体の小型埴輪が並べられていた。
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多島斗志之『症例A』より引用