城主牧野

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  • 城主牧野成定も西尾城を夜陰に紛れて脱出し、牛久保城に無事に帰還した。
  • その父は今橋城初代城主牧野成時、牧野成高、牧野成敏と諸説がある。
  • 結局、氏真の援軍を得られず孤立した城主牧野成定も永禄9年5月までには服属した。
  • はじめ保成は新二郎、貞成は新四郎称したとされ、後に貞成は牛久保城主牧野民部丞成勝の養嗣子となる。
  • 牛窪城主牧野氏の栄枯盛衰を中心に記述した内容から「牛窪記」と題されている。
  • 翌永禄9年には城主牧野成定を説得して、同5月、成定の和睦・開城を実現し、家康より牛久保衆の掌握を命じられた。
  • その後は牛久保城主牧野氏の徳川家康に対する帰順と、家康の三河平定に寄与した。
  • 牛久保衆は城主牧野氏を頭目とする武士集団であり、牧野氏直臣団とこれに合力する寄騎衆・地侍衆より構成されていたと考えられる。
  • ほかに倉地直秀・弟の家系がもう一系統あるとされ、この家系は牛久保城主牧野氏の属臣であった稲垣氏の家臣に転属した。
  • 藩主牧野氏の先祖は室町・戦国期の東三河地方の牛久保城主牧野氏であったとされ、初代長岡藩主忠成の祖父・成定以前の牧野氏については諸説があるが、戦国大名今川氏に属して松平氏とは対立した。
  • 多田源氏を出自とする能勢氏は元来、三河吉田城主牧野氏の寄騎の武将であった。
  • 東京都中央区日本橋浜町には、当時の笠間城主牧野家の下屋敷があり、その地には藩主が笠間稲荷神社より分霊を受けて建てられた笠間稲荷神社東京別社がある。
  • 東三河に位置する牛久保城主・牧野氏及び牛久保六騎は今川氏の勢力として初めはこれに強く抵抗したが、東三河において今川氏が敗色濃厚となった永禄8年より、牛久保六騎は城主牧野氏に先んじて徳川方と和睦した。
  • その子孫は、牛窪城主牧野家に属して、忠節を尽くしたが、永禄9年5月牧野氏が徳川家康と和睦すると、能勢丹波守は家康指示により牧野家の諸士を把握する。
  • 牧野平四郎家の家譜は、牛久保城にほど近い正岡城の城主牧野成敏を家祖の父とし、その4男である新九郎氏成を牧野平四郎家の家祖としている。
  • 戦国時代に、東三河において牛久保城主牧野氏と同等の勢力があったか否かは疑問が残るが、越後国長岡藩の伝説を記述した「温古之栞」によると、三河国牛久保城主の牧野新次郎は、徳川家康に安堵された所領を、牧野氏・真木氏・野瀬氏などと均分に分けたとしている。
  • 牛久保城主牧野成定は今川義元の指示により西三河の西尾城を弘治3年よりこの時まで在番守備しており、居城の牛久保城は宿老稲垣重宗及び真木氏に留守を任せていた。
  • もっとも、松平清康が三河国をほぼ統一した享禄4年に、吉田城主牧野氏及び、真木氏には清康と戦った史料・伝説が存在するが、牛久保城主牧野氏及び岩瀬氏には清康と合戦したとの史料・伝説は未見である。
  • 牧野成敏は牛久保城主牧野氏の一族で正岡城主であったが、松平清康の東征に協力した功で今橋城番となり、天文4年の森山崩れで松平清康が急死したのを機に占拠しそのまま城主になっていた。
  • 最大の相違点は京合戦で、一色氏に与力のため参陣して疲弊した伝説上の人物、牧野平三郎成興に先祖を求めるのか、それとも当家の主家筋に当たる牛久保城主牧野氏に対して徳川・松平のために一時的に反旗を翻した、実在性の確認できる正岡城主牧野成敏に求めるかである。
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