城主格
全て
名詞
74 の例文
(0.00 秒)
-
文化12年12月、従五位下・加賀守に叙位・任官する。文化13年、直堯は城主格昇進願を本家の佐賀藩から江戸幕府に対して嘆願するように求めた。小城藩は佐賀藩の支藩であるが、7万3000石を領する中堅大名であった。
...
-
この場合、無城大名は城主格大名へ昇格する。幕初の老中格は将軍家光の信任を得た側近たちが老中制確立期において、大名に取り立てられ、最終的に老中に就任して統治機構が完成する過程において任命されている。
...
-
外様大名ながら、幕府の儀式・典礼をつかさどる要職である奏者番に任じられ、天保10年には城主格に昇格する。奏者番就任や城主格昇格は、阿波国・淡路25万7千石の国守である蜂須賀家から正室を迎えたことなどに起因するとも考えられる。藩政では京都から近藤顧一郎を招聘して、藩校の国光館を造士館として発展させた。
...
-
無城大名が城主格大名へ昇格した場合、国許の陣屋を城に転換することは許されず、実際には城門の構築を許されるのみであり、領知の居地をあらわす用語も、城主大名の居城ではなく、無城大名の在所のままであった。
-
主君が城主以上のときは、留守居家老や城代として城代家老が置かれる場合があった。主君が城主格や、無城のときは、留守居たる在所家老は存在したが、城代家老の名称は用いなかった。城代家老の方が江戸家老より格上であることが多い。
...
-
-
以久が佐土原藩主となって数代の間は、佐土原島津家は格式は城主ではなかったが、以久から四代目の惟久の時五代将軍綱吉の命によって城主となった。大名には格式があって、国主・准国主・城主・城主格・領主とわかれていて、江戸城内における待遇がちがうのだ。体面と格式が最も重大なことになっている太平の時代の大名にとって、これは大事件であったにちがいない。
...
-
元平が長府藩主家を継いだことにより、清末藩は一時的に廃藩となる。また、長府藩の家格は無城に落とされるが、後年に旧来の5万石に復して家格も城主格とされた。享保5年5月に5万石となる。
...
-
五州二島の大守と呼ばれた龍造寺氏は、肥前国にも多数の城を持ったが、鍋島氏は佐賀城を残して全て破却した。毛利家同様、支藩統制上の思惑もあり、 積極的に行なったとされ、三支藩の城主格昇進も妨害して騒動も起きている。蓮池藩と小城藩は無城だが、鹿島藩は鹿島陣屋を政庁とした。
...
-
慶安4年、大坂加番に任じられた。寛文7年に城を大改修し、郡上八幡藩遠藤家は「城主格」から正式な「城主」として遇されることとなった。しかし晩年には二日町騒動、名主騒動などが起こって、藩政は多難を極めた。
...
-
この当時は4000石から5000石級の旗本の任だったが、同年中に相模及び常陸国内にあった計5000石の領地に加えて、上野国内にも新恩5000石を与えられ、譜代大名として諸侯に列する。寛永10年3月23日に松平信綱らと共に六人衆となると、その後に相模・常陸・甲斐にそれぞれ5千石を得て、2万5千石で城主格となる。その後も家光に深く寵愛され、寛永12年3月1日に老中に就任し、3万5千石をもって武蔵川越藩主となり、はじめて城主となる。
...
-
幕末の動乱において懸命に本家の長州藩を輔けた経幹だったが、慶応3年3月20日に39歳で死去した。経幹の死は長州藩主・毛利敬親の命により秘匿されたため、新政府は経幹を存命と見なして慶応4年3月13日に経幹を城主格の諸侯と認めた。これにより、江戸時代を通じて吉川氏が抱き続けた岩国藩6万石の藩主となる悲願を既に死去していた経幹が叶えることとなった。
...
-
藩政においては医学館の創設などを行なって文武を奨励し、民政にも尽くした。その藩政における尽力を幕府からも認められて、天保7年4月、萩藩主・毛利斉元の内願を入れて城主格に任じられ、所領も4万石に加増された。天保8年12月7日、還暦を迎えた広鎮は、七男の元蕃に家督を譲って隠居した。
...
-
勅使饗応役や奏者番を務めたが、そのためによる出費で藩財政が悪化した。外様大名ながら、幕府の儀式・典礼をつかさどる要職である奏者番に任じられ、天保10年には城主格に昇格する。奏者番就任や城主格昇格は、阿波国・淡路25万7千石の国守である蜂須賀家から正室を迎えたことなどに起因するとも考えられる。
...
-
藩政においても5ヵ年に及ぶ倹約令を発し、藩財政再建に努めた。正敦は文政8年4月に城主格に任じられたが、翌年10月10日に再び佐野へ移封となったため、堅田藩は廃藩となった。堅田の所領のうち、滋賀郡領は佐野藩の飛び地として幕末期まで受け継がれることとなった。
...
-
第2代藩主・水野忠見は奏者番・大番頭を歴任した。第3代藩主・水野忠韶も奏者番・大番頭を経て文化5年11月に若年寄に就任、文政8年には城主格となった。文政10年8月、忠韶は上総国鶴牧藩に移封され、北条藩は廃藩となった。
...
-
宝暦10年12月25日、先代藩主の兄・直郡が死ぬ前日にその養嗣子となり、翌年2月18日に跡を継いだ。大坂加番や奏者番を勤め、天明元年9月には西の丸若年寄、文化元年8月には城主格となり、参勤交代を行うことが義務化された。文政2年12月20日、江戸で死去した。
...
-
同月15日には慶胤が死去し、慶隆は全郡上郡2万7000石を領有することとなった。thumb|遠藤慶隆の墓徳川家康が江戸幕府を開くと、郡上藩が成立し、慶隆はその初代藩主となって、次の慶利の代まで城主格の待遇を受けた。慶長6年の膳所城を皮切りに、天下普請に動員される。
...
-
同年大晦日、建顕に改名する。元禄6年には城主格となり、元禄7年8月21日には弟・顕寛が分家し旗本寄合席に列した。元禄8年に宮床伊達家当主の伊達村房を養子に迎えようとしたが、養子縁組を幕府に届け出る前に仙台藩主・伊達綱村の養子に変更されたため、翌年に丹波国系田村氏で奥医師の田村安栖家の分家にあたる旗本・田村顕当の五男である誠顕を養子に迎えた。
...
-
本家の遺臣らにより村上の遺領相続を願い出たが、幕府からは認められなかった。寛永21年5月、直時の子・堀直吉の時代に領地替えと城主格への昇進が行なわれて、安田陣屋から村松城に移したことから、正式な村松藩が始まった。元和2年7月、堀直政の四男・堀直之は大坂の陣による軍功が認められて、越後国沼垂郡に5500石を与えられ、椎谷に陣屋を置いた。
...