坂田道太

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  • これは、墓苑創建時の厚生大臣である坂田道太の筆によるものである。
  • 昭和四十二年の初め、麓と早坂茂三は衆議院議員の坂田道太と原田憲に呼ばれる。 水木楊『田中角栄 その巨善と巨悪』より引用
  • 文部大臣の坂田道太も躊躇し、あまり無理をしない方がいいのではないかと官房長官の保利茂に忠告していた。 水木楊『田中角栄 その巨善と巨悪』より引用
  • 防衛庁長官の坂田道太を信頼していた三木は、三木政権下での防衛政策の遂行を全面的に坂田の手に委ねた。
  • 東大紛争が長引いたとき、文部大臣の坂田道太と東大総長の加藤一郎が対立した。 草柳大蔵『実力者の条件 この人たちのエッセンス』より引用
  • 本会議を開かずに議長応接室に各会派の代表を集め、坂田道太衆議院議長が解散詔書を朗読して衆議院解散となった。
  • 灘尾弘吉・田中伊三次・坂田道太とともに石井派四天王と称され、とりわけ中垣は世話役的な存在として、他のメンバーが苦手とする他派閥との折衝等で活躍した。
  • 総監はどこかへ出かけていったが、きっと警察庁や首相官邸、坂田道太文部大臣、自民党本部などに根回しに行ったにちがいない。 佐々淳行『東大落城 安田講堂攻防七十二時間』より引用
  • 坂田道太の秘書を経て政界入り。
  • また前尾繁三郎や坂田道太は議長退任後に首相就任の声がかかった際に、「議長経験者が首相になるのは国会の権威の上からよくない」として辞退したこともあり、1970年代以降は議長経験者がさらなる権力欲を目指すことは慎むべきとする風潮が浸透していった。
  • 時を同じくして体調が優れない福永健司衆議院議長の退任問題が持ち上がると中曽根と金丸らから議長就任の話も出るが側近の小坂徳三郎、また田中の指示もあって拒否し、後任には坂田道太が就任した。
  • 召集日に衆議院議長:坂田道太が各政党代表者を議長応接室に呼び込み、その場で解散詔書を朗読して衆議院解散が断行された。
  • また前尾繁三郎や坂田道太は衆議院議長退任後に首相就任の声がかかった際に、「議長経験者が首相になるのは国会の権威の上からよくない」として辞退したこともあり、衆議院議長経験者がさらなる権力欲を目指すことは慎むべきとする風潮が浸透していった。
  • というのはいうまでもなく、昭和四十三年十二月二十九日に文部省で行われた坂田道太文部大臣ら文部省首脳と加藤学長代行をはじめとする東大代表との会談の席上、「現時点においては東大入試は中止、ただし一月十五日頃までにスト解除、授業再開の見通しがたてば、その時点で再考する」という最後通牒が出されていたからだ。 佐々淳行『東大落城 安田講堂攻防七十二時間』より引用
  • 当初の予定では坂田道太法務大臣、稲葉修防衛庁長官であったものが、稲葉の防衛庁長官就任に難色を示す声が上がったため、坂田と稲葉のポストが入れ替えとなった。
  • 当初、三木首相は坂田道太を法相に、稲葉を防衛庁長官に充てるつもりだったが、「腰の曲がった稲葉が防衛庁長官では見映えが悪い」と松野頼三が三木に進言したために、坂田が防衛庁長官に就任した。
  • 引退する者や派閥離脱者が出ても、無理して新人を増やすこともしなかったため、石井派は選挙の都度勢力を減らしていったが、側近の坂田道太、田中伊三次、中垣國男、灘尾弘吉、長谷川峻らが損得抜きで最後まで石井を支え続けた。
  • 坂田道太自民党熊本県連会長が衆議院議長に就任して、県連会長を辞任したことから、1985年3月12日に、第6代会長に就任、1991年6月17日まで4期6年余り会長を務めた。
  • 中止となった最高顧問の総裁擁立構想としては、1982年の「総総分離」での福田赳夫総裁擁立案、1987年の総裁選への二階堂進の出馬構想、1989年の福田赳夫と坂田道太の総裁擁立案があった。
  • しかし、ポスト竹下と目されていた安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄ら自民党の有力者は軒並みリクルート事件に関与していたため身動きが取れず、河本敏夫は三光汽船経営危機問題から敬遠され、さらに伊東正義や田村元、坂田道太、後藤田正晴からも断られて後継の総理総裁選びは難航する。