地中海
全て
名詞
5,931 の用例
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マルセイユの街は街全体が淡紅色に見える。
建物の色調を地中海の海の色、空の色に合わせて選んだようなのである。
丘の上に高いパジリックが見える。
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遠藤周作『協奏曲』より引用
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太平洋における日本の海軍力が世界最大となるからである。
英米はそれぞれ、地中海や大西洋に艦隊を残しておかなければならない。
従って、太平洋に回せる艦隊には限りがある。
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豊田穣『松岡洋右――悲劇の外交官――(上)』より引用
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丁度Tさんの友人で甚だローマンチックな画家が渡欧するので、君、何も土産はいらない。
ただ地中海の赤い石だけを忘れぬように送ってくれといったものだ。
忠実なる画家は、その後忘れずに南仏へ旅した時、村の人々にも訊ねて見たが、指輪にするようなそんな赤い宝石は、昔からこの地方に産しない、誰も皆知らぬといったそうだ。
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小出楢重『大切な雰囲気』より引用
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古代の地中海ではこの星座を見ることができ、ケンタウルス座に付属する星として記録が残されている。
歳差運動の影響で、現在は地中海地域から見ることができなくなっている。
かつてはフランスの天文学者オギュスタン・ロワーエによって1679年に設定されたと言われていたが、1598年にペトルス・プランシウスによって独立した星座として描かれたのが先である。
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紀元前149年、第三次ポエニ戦争が開始され、紀元前146年にスキピオ・アエミリアヌスの指揮の下、3年に亘る抵抗の末にカルタゴは完全に滅亡した。
これら一連の戦争の結果、ローマの地中海世界における覇権が確立した。
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山岳地帯や北欧ではハリモミ類が、南ヨーロッパではマツ類も見られた。
ただし乾燥した地中海沿岸では、古くから森林の発達は限定的であった。
東ヨーロッパでは北部こそ針葉樹林が広がっていたが、東南部は乾燥したステップ地帯が広がり木々の生長はあまり見込めなかった。
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こういった武勇談が、この書物には無数に紹介されている。
翌四五年七月、地中海地区で訓練中のアメリカ陸軍が水泳大会を開いた。
これに出た「四四二部隊」の選手は、一種目をのぞいた全種目に優勝した。
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大宅壮一『炎は流れる2 明治と昭和の谷間』より引用
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保険会社の要請外だった八坂丸に、予約が殺到したのだが、乗りたくて乗ってくるのではない。
八坂丸しかUボートの群れている地中海を、東に向かう船がないからだ。
日本の造船所で造られ、日本人の乗組だけで運航する八坂丸を、イギリス人やフランス人の船客たちは、狸の泥舟ぐらいにしか思っていない。
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安部譲二『時速十四ノット、東へ』より引用
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塩湖からの影響で地中海は現在も大西洋より塩分濃度が高くなっている。
地中海沿岸の多くは、夏は南方のサハラ砂漠方面から北上してくる高気圧によって乾燥し、晴天に恵まれる。
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丁度子供のところへも町の文房具屋で見つけた帳面がありましたから、一ちゃんに一冊、泉ちゃんや繁ちゃんにも一冊ずつ、それにその薬と、それだけを一緒にして国の方へ帰る友達に頼みました。
どうでしょう、その友達の荷物は船と一緒に地中海へ沈んでしまいましたよ。
敵の船にやられたんですね。
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島崎藤村『新生』より引用
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ふたりとも、地中海の乾いた陽の光を求めているような顔をしている。
藤田宜永『標的の向こう側』より引用
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本書の中には、各地の産物が実に詳細にしるされ、とくに宝石、真珠、金銀についてくわしいのは、この間の事情を物語るものであろう。
当時イタリア諸都市の商人は、地中海を中心に、世界各地に活躍していた。
現在記録はのこっていないが、マルコ・ポーロ家の三人以外にも、極東の地をふんだイタリア商人は相当あったらしい。
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マルコ・ポーロ/青木富太郎訳『東方見聞録』より引用
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ステファンも窓の外へ顔を向けた。
そこにはいつもと同じ青い地中海の海と空が見えるばかりだった。
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東郷隆『(定吉七番シリーズ 3) 角のロワイヤル』より引用
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おそらくそれは、紀元前二〇二年にハンニバルの敗北で終った第二次ポエニ戦役から、前一四六年のカルタゴ滅亡で終る第三次ポエニ戦役の最初の年までを数えてのことだろう。
この五十年余りの間に、ローマは地中海世界の覇者になったのである。
実際、これ以降の地中海世界の歴史は、ローマの歴史とイコールになる。
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塩野七生『ローマ人の物語1』より引用
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当時の農耕は素朴なものであったが、まもなく大規模な農耕文化が伝わり、イベリア半島は新石器時代に入っていった。
この時期の文化は半島の東南部の地中海沿岸地方に多く見られる。
とりわけ半島南部のアルメリアが農耕文化受容の拠点の一つと考えられている。
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多くはヨーロッパへ入ったが、アフリカ地中海沿岸を西へむかったのもいた。
星新一『きまぐれ学問所』より引用
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というよりも、その存在を知っていた。
東部地中海方面に配属されたことのあるものなら、誰でも知っていた。
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マクリーン『ナヴァロンの要塞』より引用
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ローマのレシピは紀元前2世紀にカトー・ケンソリウスの『農業論』で始まったと知られている。
この時代に、地中海東の料理の多くがギリシャ語とラテン語で記述された。
古代カルタゴのレシピの幾つかが、ギリシャ語とラテン語に翻訳され知られている。
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この五十年余りの間に、ローマは地中海世界の覇者になったのである。
実際、これ以降の地中海世界の歴史は、ローマの歴史とイコールになる。
しかし、ローマは、五十三年前に突如出現したのではない。
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塩野七生『ローマ人の物語1』より引用
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また当時の縦隊戦術は後述する如く自然第二線決戦主義を有利とするのであるけれども、第二線決戦はナポレオンの最も得意とするところである。
地中海民族から第二線決戦の最大名手を出した事は面白いではないか。
また北方民族から第一線決戦の最大名手フリードリヒ大王を出したことは時代の勢いであったとは言え必ずしも偶然とのみ言えない。
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石原莞爾『戦争史大観』より引用