国策大綱

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  • 昭和十一年八月の五相会議は「国策大綱」を決定した。 角田房子『一死、大罪を謝す』より引用
  • この要求を黙って飲むほかはない満洲国の立場は、大東亜戦争一周年記念日の十二月八日に発表された満洲国基本国策大綱にも、うかがわれる。 角田房子『甘粕大尉 ―増補改訂』より引用
  • しかし、「国策の基準」の原案になった「国策大綱」は陸海軍が共同して作成したものである。 勝田龍夫『重臣たちの昭和史 上』より引用
  • これは石原独自の最終戦論に立脚したものだが、南進論を主張する海軍の賛同を得られず、代って陸海軍妥協の産物として六月三十日に「国策大綱」が作成され、外務省が参加して一部を修正したうえで、八月七日の五相会議で「国策の基準」として承認された。 勝田龍夫『重臣たちの昭和史 上』より引用
  • 石原が「国防国策大綱」の草案に書き込んだように、これである。 勝田龍夫『重臣たちの昭和史 上』より引用
  • 石原はこういって反対したのだが、まもなく十一年六月末に陸海軍が練り上げた「国策大綱」には、「帝国として確立すべき根本国策は、国防を安固にして東亜大陸における帝国の地歩を確立すると共に、南方海洋に進出発展するに在り」と南進方針が明記され、一年後の日中戦争勃発で石原の危惧は現実のものとなった。 勝田龍夫『重臣たちの昭和史 上』より引用
  • また「帝国外交方針」も、「陸海軍事務当局が外務省側に対し新外交方針の樹立を申し入れ、結局三省事務当局の会議が開かれ」〈『広田弘毅』206〉て成案をみたもので、当然「国策大綱に準拠」している。 勝田龍夫『重臣たちの昭和史 上』より引用
  • 六月末に石原は「国防国策大綱」をまとめる。 勝田龍夫『重臣たちの昭和史 上』より引用