四書五経
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名詞
212 の例文
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「范修、そなた、ひとつ科挙を受験してみる気はないか」 主人の言葉に、さすがの俺も目を剥いた。試験科目である四書五経など、手にしたこともないのだから当然だろう。
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旧制中学校時代から地域の教育を担ってきた福井県嶺北南部地域を代表する進学校。図書館には旧藩校「進修教校」の四書五経などの書籍が所蔵されている。スーパーサイエンスハイスクールに指定されている。
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案の定、豆本である。四書五経の注釈の類だろうか、一寸角ほどの小さな本を次々と机の上に並べていく。虎の巻を前にした陳護は、満足げな笑みを漏らし、独り言を言った。
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宗則が藩主・信政の寵臣であったこともあり、同年11月に家督を継ぐことが認められたが、幼年過ぎるとして百人扶持に減らされた。母は儒学者山鹿素行の娘であり、四書五経など全てを政方に叩き込んだ。その結果、政方は祖父の始めた山鹿流兵学を始め、儒学などにも精通するようになった。
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それを基礎づけているのは、「思想がないという思想がある」という、この真空原理であるというしかない。明治維新を行ったのは、四書五経という、中国の古典教育を受けてきた世代である。それどころか、三百年近く、並みの日本人は中国の古典教育しか受けていない。
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まるで腹には、何にもありやせん。あればまづ寺子屋の師匠でも云ひさうな、四書五経の講釈だけでげせう。だから又当世の事は、とんと御存じなしさ。
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わしは国元では、御役料もいただけぬ助教のはしっくれではござんしたが、子弟らには誠心、人たるものの道をば教えたつもりでござんす。四書五経をいかに学んでも、そんたなものは糞の役にも立ち申さぬ。何となれば、偉い先生はみなその教えを、忠の一字にすりかえて訓すゆえ。
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いや首里において彼の名を知らない者はいない。喜舎場朝薫といえば六歳にして四書五経を読んだ神童として名を馳せていた。科試に受かるために生まれてきたと巷で評判の天才少年である。
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まるで腹には、何にもありやせん。あればまず寺子屋の師匠でも言いそうな、四書五経の講釈だけでげしょう。だからまた当世のことは、とんと御存じなしさ。
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早く父を喪い、教育熱心な母の下、近所の和尚に四書五経を学んだ。地元の小学校に通い、1886年米湊村の高等小学校に編入した。
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田口は肉体的な後遺症と中国古典思想という、大事故がもたらした2つをもって、日本へ帰り、むさぼるように『老子』や『荘子』を読む。やがて関心は四書五経など中国古典思想全般へと広がった。
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春秋時代とそれに続く戦国時代の多くの学派のうちで、儒家、道家、墨家、法家の4学派が最も影響力が強かった。儒家は『四書五経』に収められた賢人たちの教えをもとに発展した。儒学は倫理的・社会的・政治学的・宗教的な体系であり、生まれてから21世紀にいたるまで中国の歴史・文化に膨大な影響を与えてきた。
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thumb ジェームズ・レッグは、スコットランド出身のロンドン伝道協会の宣教師で、中国学者。四書五経をはじめとする儒教や道教の古典を英語に翻訳した。
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また、大工の子なら『商売往来』の代わりに『番匠往来』、百姓の子には『百姓往来』が与えられた。さらに進んで高等科へ入ると、稀れには四書五経から『文選』を学ぶ者もいた。女はいろはと数字から、主として手紙の書き方を教わった。
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司清三郎は、松平伊豆守信祝の推輓で、寄合旗本の三男から、小姓組番頭になった二十六歳の切れ者であった。五歳の時、四書五経をすらすらと読み下したことが、語り草になっている。湯島聖堂はじまって以来の俊才と称されている。
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四書五経の一つに数えられる大学に脩身の語がある。
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科試の初科は四書五経の知識を踏まえた上で出題されるのだ。