四斗樽
123 の例文
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油断があったので、浮いた川島の身体が、狭い路にまではみ出している漬物屋に横倒しとなった。その拍子に彼の身体は蓋をあけている沢庵の四斗樽の中にはまりこんだ。黄色い汁が川島の身体にかかるのを見てから、藤兵衛は一散に逃げた。
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それによって市場が全国化した。四斗樽を船や荷馬車で運んだ時代は、灘の酒も東京止まりだったんです。つまり酒は地元消費、それが自然だったから蔵数も多かったと。
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平気で彼らはタン、ツバ、ハナなどを高貴薬、海人草のなかへとばした。そしてそれもいっしょくたにして四斗樽へ入れ、〝第二工場〟へ送った。倉庫のなかは寒くて冷たいので彼らはたえまなく咳きこんだ。
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五つに切った女房の死体をね、四斗樽の中へ入れて、冷していたのですよ。
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三十歳を越した年齢になって思い返してみると、父はかなり荒い酒飲みだったことを知った。親しい者を十人近く連れて飲み歩いたり、四斗樽を据えて酒宴をひらく。待合遊びをして外泊することも多いようだった。
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おまけにこの太鼓たるや、気まりの悪いくらい真赤な塗胴で、天女の舞う図の金蒔絵がしてあって、陽を受けて燦然と輝き、てれくさくって思わず顔をそむけたいくらい。しかも大きさは四斗樽ほどあって、棒を通して二人でかついでも、なかなか重い。女房はじめは我慢して神妙らしく担いでいても、町はずれに出て、杉林にさしかかる頃からは、あたりに人ひとりいないし、そろそろ愚痴が出て来る。
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それが人さえ出せば町方から、いつでも菰かぶりが取寄せられるようになって、始めて今日のような酒宴が、随時に開かれることにもなったのである。酒の普及がこの四斗樽というものの発明によって、たちまち容易になったことは争われない。しかもその桶屋の業、すなわち竹をたがにして大きな桶や樽を結ぶ技術は、近世に入るまでは都会でも知られていなかった。
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野菜をせるのはなかなか威勢のよいものです。四斗樽ようの物を伏せた上に筆を耳に挟んだ人が乗って、何か高声に叫びますと、皆そこへ集まって来ます。それからは符牒でしょう、何か互にいい合って、手間の取れることなどもありますが、極まりが附いて皆がそこを離れるころには、また別の方で呼立てます。
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兵部は珍しく松坂町の屋敷へ来て、あるじの方へは別段の挨拶もせず、付人達のいるお長屋の方へふらりと入った。すぐ後から、酒屋の亭主が四斗樽を車からおろして運び入れて来た。「この長屋だ」 兵部が亭主にこういったのを聞いて、小林平七が顔を出してのぞいた。
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横穴壕の支柱に使う松材を肩にかついで峰から谷へ、谷から峰へと、一日に何往復と知れず歩くのである。四斗樽に高粱飯をもらい、ドラム罐を寺の庭にすえつけて風呂をたてた。私たちは豆粕や芋しか食べないのに、夕方になって寺の庭に裸になって並ぶとミルクくさい匂いが発散するのは不思議だった。
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僕のところのお勝手は、手ぜまなものだから、四斗樽を玄関へ据えつけた。昨夜おそく仕事から帰ってきて、僕が茶の間の餉台の前へ胡座をかいていると、女房が片口を持って玄関の方へ出て行った。
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そこへ、近所の酒問屋から番頭が注文取りにきた。菰冠りの、にせ正宗四斗樽一本を、金四十円で入れましょうというのだ。正宗と名がついていれば、にせでもなんでもよろしい。
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稍淡い影ではありましたが、モーニングの上に、確かに首らしいものが出ています。その頭がまた四斗樽のように大きいのです。モーニングの袖からも手らしいものが出ていますが、それが不釣合にも野球のミットのような大きさです。
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酒は白鹿の四斗樽がまだ何んぼも手え付けへんよつて、何んぼ何んでも飮み切れまい。
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此處には四斗樽ほどの大きな圓い金屬製の煖爐が入れてあつた。その側に破れ古びた洋服を着て老人は煙管をとつてゐた。
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ふらりと農家に立ち寄っては、米麦の値段や野菜の出来具合を聞いたり、夜の海岸へ出かけて地引網の見物をし、イカ釣り船の漁夫に話しかけたりしたという。地元の祭りの時には、四斗樽の鏡を抜いて酒を振舞い、地域との融和を心がけていたという。伊藤の死後は梅子夫人が居住したが、1921年に養子の伊藤博邦により朝鮮の李王家に譲渡されて別邸となった。
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その像は、下げ髪に十二単ではなく、小町が実在した平安初期の時代考証にのっとり、意外にも、ロングドレスふうな薄地の襲裳で身をつつんでいた。お堂の入口に眼をうつすと、小町酒造の献納した四斗樽が数個つまれてある。
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