四君子
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名詞
49 の例文
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また習って見ようとも思わぬので、此方は全く駄目である。文人がよく描く四君子などでも一枝一葉さえも真似する事が出来ぬ。が、こんな揮毫でも物好きな人には需めらるるので、これに関する収入が選句以外に出来て、爾来物価が騰貴しつつあるにかかわらず、まだ今日でも、どうかこうか活計を立てている。
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どうも先生に就かれたようには思われませんから、何かお手本を見て習われたのだと察します。お画きになるのは休日の静かな午前などで、その絵は重に四君子などでした。とりわけ蘭が多く、紙一ぱいに蘭の葉の画いてあるのもありました。
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画題も、中国の山水や人物、花鳥と幅ひろく、儒学を学んだため特に孔子を描くときには力が入ったようだ。四君子も描いたが、特に梅を好み、作品、記録共によく残っている。
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観賞用のキクは奈良時代に中国大陸より伝えられた。高潔な美しさが君子に似ているとされ、梅、竹、蘭と共に四君子とされた。文学上は、『万葉集』には詠まれておらず、『古今和歌集』、『源氏物語』などから登場する。
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どうしても気に入ったものが見つからず、有名な友禅作家のところへ行き、特別に描いてもらったのだ。しかし四君子と御所車というあまりにも古典的な柄が不満で、千花は一度袖を通したきりだ。
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しかし、時間が4人の心に距離を作ってしまった。笹丸はただ信じた、再び4人で「四君子」であるといえる日々が来ることを。それを信じて夢見鳥学園の文化祭、通称「彩生祭」で作品を作ることにした。
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この時代を特に太素軒時代といい墨蘭竹図・山水図などに名品が多い。蘭竹画、とりわけ四君子のひとつ蘭画の第一人者として知られた。維新後、再び春徳寺に戻り最晩年を過ごす。
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菱湖門下では大竹蒋塘・萩原秋厳・中沢雪城と並び「菱湖四天王」と称され、幕命によって天保通貨銭に鋳字する「天保通宝」の文字を記したことで更に書名を高めることとなった。また絵にも優れ、特に四君子の水墨画を得意とした。その素養を認めた高久靄厓・藤堂凌雲・福田半香らとも親しく交わっている。
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京都帝国大学を卒業。文化人として40歳の時に建設が終了した四君子苑で多くの文化人や茶人をもてなした。謹次郎が収集した茶道具・古美術品を保存するため、1975年に財団法人北村文華財団が設立、1977年に北村美術館が開館した。
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萬福寺塔頭のひとつである真光院には無心性覚の頂相が伝わっている。また文人画風の墨画も得意とし蘭をはじめ四君子を好んで描いた。日本の初期南画家に先立つ50年も前から和僧の手によってこのような画風があったことは注目される。
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それを穿き違ひして竹を嫌ふといふのは可笑しなことである。竹は古来四君子の中の一つとして崇められてゐて、坦懐にしてしかも節があつてしつかりしてゐる、悪いことは少しもない。皆が取り違ひして竹を嫌ふので三代がわざとに竹を植ゑてその中に掬水荘を建てて住んでゐるのである。
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それでいてほとんど俗世の何事も知らないような飄逸なふうがあった。郷里の親戚や知人の家へ行けば、今でも春田のかいた四君子や山水の絵の襖や屏風が見られる。私はそれを見るたびに、楊枝をかみながら絵絹に対している春田居士を思い浮かべる。
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また、仏教の経典を筆写する時、その経典の内容を絵で説明した写経画も流行った。高麗後期には四君子を主題にした文人画が流行った。
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また、水墨画では画家が物体の本質を知覚的・主観的に捉えたもののみが描かれ、自然再現描写を重視する西洋画のように光源を固定した背景を描かない。宋代には、文人官僚の余技としての、四君子の水墨画が行われた。また、禅宗の普及に伴い、禅宗的故事人物画が水墨で制作された。
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父の描いた余り上手でない墨蘭や四君子などを、ぼくも子供の頃、よく見たものだし、柱掛けだの額面などを人から依頼されると、これは大得意で、誰にでも描いてやった。出入りの大工が「旦那の御きげんの悪いときには絵をお願いするに限ります」と、母に云ったそうである。
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その笠に画いた墨絵は兄の筆でした。兄はよく四君子を画いたり、庭を写生したりしたので、童子が牛に乗って笛を吹いている絵を殊によく画きました。それがかわいいので、よくねだって貰ったものでした。
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四君子とは、蘭、竹、菊、梅の4種を、草木の中の君子として称えた言葉。また、それらを全て使った図柄、模様。
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