喜多長政

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  • 東和の川喜多長政社長と『二つの世界の男』の字幕を検討したことがあった。 清水俊二『映画字幕の作り方教えます』より引用
  • 上海では1910年代より中国映画の製作地としてその名が知られており、1937年に日本による占領が始まると、日本軍はその映画管理を川喜多長政に要請した。
  • 川喜多長政は「甘粕は、疑問や矛盾を切り捨てることのできる男だった」と語る。 角田房子『甘粕大尉 ―増補改訂』より引用
  • 東和映画の川喜多長政がヨーロッパ映画の輸入を始めたころ、たまたまベルリンにいて、そのころの東和の作品のほとんどを手がけている。 清水俊二『映画字幕の作り方教えます』より引用
  • 董事長は褚民誼、副董事長として日本から送り込まれたのは東和商事の川喜多長政であった。
  • そして、考え方はそれぞれ違っていても、秦豊吉、川喜多長政、城戸四郎というスーパー字幕に関心を抱いていた映画会社首脳がいたこともいっておきたかったのである。 清水俊二『映画字幕の作り方教えます』より引用
  • 出資者であり提携会社である満映の理事長・甘粕と、中華電影公司の専務理事・川喜多長政とは度々会う機会があった。 角田房子『甘粕大尉 ―増補改訂』より引用
  • 折りしも日独合作映画を企画していた川喜多長政とアーノルド・ファンクにドイツ政府が働きかけた結果、この映画の製作となった。
  • 日本軍の占領下にあった上海の華成公司で製作した映画『木蘭従軍』は、プロデューサーの張善琨たちの異民族への抵抗の意思を暗喩した作品とされるが、彼らの屈辱と苦衷の日々を察していた日本側責任者の川喜多長政はこれに異議を唱えなかったとされる。
  • 翌1969年には、同5月24日から26日まで開催された「第8回日本映画祭」に出席のため、川喜多長政らと共に旧ソビエト連邦の首都モスクワを訪れている。
  • 歴代の社長は、創業者の川喜多長政と2代目社長の白洲春正の在任期間が長かったこともあり、80年の歴史でもわずか4人である。
  • そして、アメリカの新聞で事件を知ったジョセフ・フォン・スタンバーグが、訪米中であった川喜多長政に映画化の申し入れを行ったことで、『アナタハン』の制作がスタートすることになる。
  • また、占領政策の一環として戦争責任の問題は映画業界にも波及し、戦時中の映画製作において戦争協力者を追放すべしとの声が叫ばれ始めると、川喜多長政、根岸寛一、城戸四郎といった戦意高揚映画に携わった人物が1947年に映画界追放とされた。
  • 同作の公開後の昭和12年3月12日、原は義兄熊谷久虎や東和の川喜多長政らと共に下関から海路大連に向かった。
  • 三船プロダクションの設立と運営にも森岩雄、藤本真澄、川喜多長政らと大きく尽力した。
  • 川喜多長政・川喜多かしこ夫妻や、宣伝担当の筈見恒夫たちが試写を観て茶を飲みながら感激を噛みしめあううち、自然に浮かんで決定した題名だった。
  • これは、ルネ・クレール監督の映画 が邦題『巴里祭』として公開されヒットしたためで、邦題を考案したのは、この映画を輸入し配給した東和商事社長川喜多長政たちである。
  • また大御所・栗島すみ子を1956年の『流れる』で18年ぶりに映画出演させたり、森、田中、川喜多長政と共に三船プロダクション設立に尽力、三船敏郎に命令し三船プロの第1回作品『五十万人の遺産』の監督をさせた。
  • そのような経緯から、三船プロダクション設立にあたり東宝の重鎮・森岩雄、藤本真澄と川喜多長政が取締役に名を連ね、運営には田中友幸の尽力があり彼らを後ろ盾とした。

喜多長政 の使われ方